心を入れ替えるということ (使徒22:1-16, 詩編51:12)
◆心を入れ替える
「これからは、心を入れ替えて、真面目に生きるんだな」
刑事ものか、時代劇かでありそうなセリフです。主役の正義の味方が、最後に呟きそうな言葉だと私は感じます。悪いことをしたには違いありませんが、真の悪人ではなかったキャラクターがいて、視聴者もその人に同情している中で、再び立ち上がることを望む雰囲気がつくられていることが条件です。生活苦からやむをえず盗みを働いたけれども、悪代官に痛めつけられ、その悪代官の悪を暴くために貢献した、などという背景を想像してみました。根っからの悪人は、問答無用で斬り捨てられるということもあるわけですから、なんとも大きな差になっています。
ここに「心を入れ替える」という言葉がありますが、それで思い出すのが、マタイによる福音書の18章です。
1:その時、弟子たちがイエスのところに来て、「天の国では、一体誰がいちばん偉いのでしょうか」と言った。
2:そこで、イエスは一人の子どもを呼び寄せ、彼らの真ん中に立たせて、
3:言われた。「よく言っておく。心を入れ替えて子どものようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。
4:だから、この子どものように、自分を低くする者が、天の国でいちばん偉いのだ。
5:また、私の名のためにこのような子どもの一人を受け入れる者は、私を受け入れるのである。」
これは、もちろん大人たちに向けての言葉です。子どものようになることが、心を入れ替えることになるのだ、とイエスは言っています。子どもとは何か。しばしば説教では取り上げられます。権力のない者、弱い者、自分が低い立場背であることを知る者、そして自分の価値が一般にあるとは思わない者、とでも言いましょうか。昔は、子どもはそうした虐げられる立場にあるのが普通だったことでしょう。いま王様のようになっている子どもがたくさんいるとすれば、さてどう解釈すればよいのか、私たちはまた考え直さなければならないかもしれません。
心を入れ替える。それは必ずしも、真人間になれ、と言っているようには聞こえません。子どものようになること。なんともスッキリしない教えです。
◆仏教用語
キリスト教の世界で、この「心を入れ替える」ということは、「回心」と呼ばれます。一般には、同じ「かいしん」でも「改心」と書くことでしょう。心を改めることです。しかしキリスト教用語では、心を回す、と書きます。なんとも独特な用語であるように見えます。「心を入れ替える」のは「改心」でよいのではないか、という気もします。「回心」は、何か特別に宗教的な意味を含ませているのでしょうか。
この「回心」と書く言葉は、仏教の用語を借りているものと思われます。「えしん」と読みます。キリシタンの頃には「でうす」とか「ぱらいそ」とか、西欧の言葉をそのまま文字にしていましたが、キリスト教は、やがて中国語の聖書用語を使うか、あるいは日本語で訳語をつくるようになりました。そのとき、仏教用語は都合のよい素材であったように見えます。「礼拝」は、仏教でいう「らいはい」の読みを替えて、採用しました。いまは「れいはい」の方が読みやすく浸透しているようにすら見えますから、仏教サイドからすれば、あまり気持ちのよいものではないのではないかと思います。
「回心」は仏教において「えしん」と読みますが、これは、古い自己が死んで新しい己れが生まれる、というような意味を有っているようです。そのためには「懺悔」が必要で、自らの罪を告白するようなことだ、とされています。仏教では「さんげ」と読むのですが、キリスト教側が読ませた「ざんげ」のほうが一般的になっているのも、例によって、ということになるのでしょうか。
普通人々が考えるような「懺悔」や「回心」については、たとえば親鸞は、それを「自力」のことと見なして、それこそが救いの道ではない、としたと伝えられています。つまりは、少しばかり「反省」したからと言って、それが救いの条件になる、とは考えなかった、ということです。本来の「回心」は、その程度のものではなかった、と考えていたのではないかと思われます。
いま仏教を説くつもりはありませんし、私にはそのような能力はありません。私の理解などいい加減極まりないので、これらの仏教のことについては、そのまま信用はなさらないようにしてください。ただ、聖書を考える上で、私たちは幾らか参考にさせて戴こう、と思っている程度で取り上げました。
親鸞の思想は、しばしばプロテスタント的だと言われます。類似の構造や宗教観を感じることは、あってよいだろうと思います。確かに宗教的な天才は、優れた洞察をするものなのでしょう。
◆親分はイエス様
今日はパウロの回心の場面を見ましたが、その詳細を辿るというよりも、まだしばらく別の事例を見ていこうと考えています。
2001年9月、アメリカでの同時多発テロが発生する十日前、ある映画が公開されました。『親分はイエス様』という映画です。同じ年の7月に『刺青クリスチャン 親分はイエス様』という文庫本が発行されたのですが、映画上映と同時に、手に取りやすいように出されたのだろうと思います。元々単行本としては、1998年に生まれていました。但し、文庫版はかなり改訂されています。
当時、キリスト教世界では、けっこう話題に上りました。覚えておいでの方もいらっしゃるだろうと思います。ご存じない方にご紹介するのは簡単ではないのですが、一言でいうなら、元ヤクザがクリスチャンになった、という話であり、その経緯を描いています。キリスト教世界では、それを「証し」と言います。自分が変えられた体験談を語るのです。
ただ救われたというだけではありません。その信仰は素朴なところがありますから、十字架を実際に担いで日本全国を廻るなど、大胆な伝道活動も繰り広げました。中には牧師になった人もいます。このグループは「ミッション・バラバ」と名のっています。バラバというのは、イエスの十字架のときに、恩赦を受けた強盗の名前です。
宣教師アーサー・ホーランドの元に、この元ヤクザの面々は集まりました。アーサー・ホーランドは大阪生まれの人で、その経歴がまたユニークと言えばユニークです。ご存じない方は、一度お調べになるとよろしいかと思います。いまはその暇がありません。壇上でのメッセージの面白さもさることながら、自ら「不良牧師」を名のり、ハーレーを乗り回して全国を駆け巡るなど、「型破り」という言葉すら似合わないほどの人です。牧師になってから、この人も自ら刺青を入れています。
彼のもとに集まったこの元ヤクザの面々は、生まれ変わった新しい人生を歩みます。体に刻まれた刺青は消えませんが、心は新たになったのです。
登場する人は皆男たちです。その一人ひとりを挙げていくことは遠慮します。それぞれの人生の背景は、もちろん異なります。突っ張っているところをヤクザにスカウトされる、というようなことはよくあったようです。組に入り、親分に惚れ込むなどのこともありました。犯罪を堂々とやっていくのも、組というバックがあってのことでしょうか。刑務所暮らしもあるし、指を詰めた人もいます。2本ないのはこういう事情だ、という説明もありました。
なかなか気の毒な生い立ちもあります。家庭環境がよくなくて、道を外れたという話もありました。自殺未遂を繰り返すこともあるし、結婚しても、さらに女遊びをしたり暴力を振るったり、話を聞くだけでも疲れてしまいそうです。ここには8人の証しが収められていますが、多くの人を傷つけてきたことを、本人が自覚しているのは確かです。人を騙し、金を巻き上げ、豪遊し、借金生活に陥ったためにまた悪の限りを尽くします。子どもが生まれても、妻を放置して遊び歩くなど当たり前のようなものであり、離婚もざらでした。
実は、ヤクザ自身は、自ら覚醒剤には手を出さないそうです。自分が溺れてはならないというのです。人間としてダメになることが分かっているのです。それを他人に打つと金になるので、他人を利用して自分が膨大な金を手にするといった具合です。しかし、本書の人物の中には、そのタブーに手を出し、自ら覚醒剤を打った、という例もありました。幻覚や暴力、自殺への衝動などが、生々しく語られています。
ありきたりの生活をしている一般市民にとっては、知る由もないような人生が、ここに次々と現れます。読んでいて、息苦しくなるほどです。
◆ヤクザの救い
本は、この後皆がクリスチャンになってゆくことが分かっていますから、なんとか読んでいられます。このヤクザたちは、それぞれに、キリスト教会に何らかの形で関わることが起こります。もちろん、すぐに信じるなどということはありません。義理で行ったとか、惚れた女について行ったとかいうレベルからであり、説教を聞いても何も分からないということがさかんに言われていました。
けれども中には、元々クリスチャン家庭の子だったという人もいまなす。教会の役員を務める厳格な父親に反抗して家を出て、ヤクザの道に入ったというのです。けれども、子どもの頃には教会で聖書の話を聞いています。覚醒剤でいい加減参った中で、それが頭に浮かぶ、というふうでもありました。
読んでいけば、彼らが明確に、イエスの救いに触れている、ということが分かります。読めば分かります。中にはイエスの幻を見たとか、声を聞いたとかいう例もあります。それは幻覚か、と思われないこともないし、犯罪心理から何か説明ができそうな現象であるかもしれません。けれども、信仰とは、そういうものでもあるのでしょう。案外素朴な思いでそうなってしまったのですから、単純にイエスを信じる、ということもあるようです。
また、なにくそと思った気持ちも描かれます。何億という借金を抱えていたために、金儲けができますように、と祈り続けていた、などとも書かれています。しかしそのとき神は、その借金を返す業を起こした、という話もありました。ただものではありません。しかし、良い子のクリスチャンから見れば、それは信仰というものとは違うだろう、と茶々を入れたくなるかもしれません。それでも、事実は事実です。旧約聖書にも、ずいぶんとんでもないことが起こっていますし、私どもの狭い了見で決めつけてはなりません。
彼らは、神と出会い、聖書を信じたのです。彼らの行いを真似したくもないし、それを称えようと思いませんが、神を称えることはしたいと思います。
また、この男たちの証しを聞いていると、しばしばその妻の存在に驚かされます。散々女を取り替えた挙句の女性であることもあれば、惚れ込んで一途に追いかけたという場合もあります。ヤコブがラケルに惚れた話をちょっと思い出します。しかし、惚れて口説いたくせに、暴力をはじめずいぶん酷いことをした、という例もありました。ただ、その女性というものが、実にクリスチャンであることが多いのです。
クリスチャン女性と関わったからこそ、彼らは教会や聖書に導かれた、と言ってしまえばそれまでですが、それが韓国人や台湾人ということがしばしばありました。教会に行くなら結婚する、という条件を出すこともありましたが、ひたすら忍耐している、というようにも見えました。ヤクザであることを黙っていた例もありますが、概してなんとも寛容な様子で、不思議に思わないではいられません。
その女性が牧師に相談することもありました。登場する牧師がまたできた人で、ヤクザが教会に来ても実に平然としており、優しく神の教えを説くという様子も窺えます。
クリスチャン女性たちが、彼らを変える大きな原因となっているように見えて仕方がありません。クリスチャン女性が何人も何人も、ヤクザと付き合い、また結婚しているという事実には、繰り返しますが、私は単純に驚きます。クリスチャン男性は、えらく少なかったのでしょうか。品行方正な教会にいる男ではなく、威勢の良い男に惹かれるという面があったのでしょうか。
私にはよく分かりません。それについて何か説明ができるとも考えていません。ここにあるのは、事実だけです。
◆罪人のかしら
こうしたヤクザでさえも救われたのだ。これはよい福音だ。よし、この本は伝道の力になるだろう。そのような魅力を覚えた人が、いるかもしれません。神はこんなヤクザでも救うのだ、と。でも、私はそうは思いません。決して思いません。「ヤクザでさえ」救われたなどとは考えないのです。「ヤクザだから」救われた、ならまだ分かります。親鸞の言葉を思い起こす人もいるかもしれません。でも、もっと強い印象をもってよいのではないか、と思います。牧会書簡は、自分が「罪人のかしら」だ、と言っていました。
わたしはその罪人のかしらです。(Ⅰテモテ1章15節)
悪の限りを尽くしたようなヤクザを、自分より下に見るようなことを、良い子のクリスチャンは、無意識にやっていないか、考えさせられます。私たちは罪人だ、というところからスタートしたのが、キリスト者です。罪人である点では、何も違いはありません。少しでも「自分のほうがまし」という意識をもっていたとしたら、とんでもない間違いへと暴走しかねません。
むしろ、こうした証しの中に、子どものような信仰がある、と学ぶことができるのではないでしょうか。真っ直ぐな信仰をもたない自分を恥じるような気持ちが起こるほうが、自然です。
よく言っておく。心を入れ替えて子どものようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。(マタイ18:3)
彼らは、救われたいと願いました。教会に来たとき、ここで救われるかもしれない、という期待を抱きます。ただ、そういう自分ですら、打ち砕かれる経験をします。
その世界では、殺されるかもしれないという恐怖がつきまといます。組をやめる、ということを申し出るときに、覚悟もしたそうです。実際に迷惑をかけて復讐が当然という情況になったり、刑務所の中まで追いかけられたりする経験もありました。が、不思議なことが証しされます。親分から大目に見られるのみならず、援助さえもらい、中にはその親分を教会に導いていったという、すごい話もありました。
◆パウロの回心
仏教での回心には、心を入れ替えるというよりも、古い自己が死んで新しい己れが生まれるという意味がある、と先に触れました。構図からすると、キリスト教も似ています。
しかし親鸞がこだわったように、それは「自力」だとも言えます。「心を入れ替える」の主語は誰でしょうか。多分に、自分、私なのです。自分が自分の心を入れ替える、ということがここに起こっているように見えます。その自分とは何ものでしょうか。身体のことでしょうか。心のない自我があって、心を入れ替えるとでも言うのでしょうか。
自分で自分の心を入れ替える、というのは。何か無理があるのです。自分でない者が、入れ替えするしかできないのです。あるいは、これまでの自分が死ぬ、ということによってしか、それはなされないのかもしれません。死んで新たに生まれ変わるわけです。が、自分で生まれ変わることができるのならば、話は簡単です。何の世話も要りません。
パウロの救いの証しの聖書の箇所をいま開きました。それを丁寧に辿り、説明するゆとりはありません。というより、必要はありません。そこに書いてあることをお読みになれば、それでよいのです。聖書をご存じの方ならば、すでに幾度も見ている箇所です。
パウロはそのときサウロと名のっていましたが、本人に何の前触れも予感もなく、突然に、イエスからの介入がありました。ある意味で乱暴に、暴力的に、無理矢理イエスがパウロにケンカをふっかけ、一方的にイエスの僕にしてしまうのです。
このとき、サウロは魂において、死んだとしか言えません。イエスの攻撃により、殺されたのです。しかし、派遣されたアナニアという人物により助け起こされ、再び見えるようになっています。「起きる」、それは「復活する」ことを意味する言葉です。サウロは死んで、復活させられたのです。
これは、優れた意味において、「回心」だと言えます。自分で心を入れ替えたのではありません。神によりサウロは一旦殺され、そして復活させられています。そこにこそ、「回心」の本筋があり、「回心」の奥義のようなものがあるとすべきでしょう。
◆あなたの回心
自分の心は入れ替ったのでしょうか。自分で入れ替えたのでしょうか。誠実なクリスチャンは、そんなふうに悩むことがあるかもしれません。相変わらず以前と同じような罪を犯しもするし、何か自分が劇的に変わったという意識ももてないでいる人もいることでしょう。しかし、そのように真摯に思い悩むことは、決して悪いことではないと思います。自分をごまかすのではなく、神の前に立つ人間として、適切に判断していることになるからです。けれども、悩んでいても気が滅入ります。何も解決しません。私たちには、そこから何が必要なのでしょうか。
神よ、私のために清い心を造り/私の内に新しく確かな霊を授けてください。(詩編51:12)
この詩編の背景は、とても有名です。イスラエルで最も敬愛される偉大な王ダビデが、とんでもない間違いをしでかすのです。夫ある女性を手込めにし、あろうことかその夫を殺します。しかも権力により、純朴で忠誠を見せた兵士を惨殺するのです。神はさすがにこれは咎めました。いくらダビデの心が神へと真っ直ぐに伸びていたからといっても、ここまですれば、通常は死罪です。神に見捨てられて当然です。しかし、神は赦します。いくらかの痛みは伴わせましたが、ダビデは神に赦されます。それで、ダビデは悔い改める言葉をこうして神に向けています。
神よ、私のために清い心を造り/私の内に新しく確かな霊を授けてください。(詩編51:12)
私たちも祈りたいものです。この冒頭にあるように、まず「神よ」と祈るのです。けれども、祈ったところで、あなたには何も起こらないでしょう。直ちに奇蹟が起こり、清い心が与えられるものではありません。新しい霊がきたぞ、と感動することもありません。祈ったとたんに祈った通りになるのならば、それは楽しいかもしれません。けれども、それだったら人は、いくらでも祈るでしょう。こうしてください、ああしてください、ああすぐに叶えられた、それが当たり前のことであるならば、誰でも祈ります。但しそれは、自分の欲望のために祈るということになるでしょう。
あなたは、祈り続けるしかありません。祈った通りのことが起こらなくても、祈り続けなければなりません。暗いまま、事態は何も変わらないでしょう。ただ、その暗さが分かっていれば、やがて光が射すことでしょう。真昼のように輝く光が射し込むことでしょう。その光の輝きのために、目が見えなくなってしまうかもしれません。その光に当てられて、一度死ぬことになるのではないか、とも思います。
そして、次にもし光が再び見えたとしたら、その光の中で生き返ったことが分かるでしょう。生まれ変わるのです。神により、外から光が当てられました。神の業により、心は入れ替ったのです。心を回すという「回心」は、いま仏教用語であることも、日本語としての意味も、すべてを超えて、主語が神であるのだと知らされます。神が主語、神が主体となって、あなたの心は入れ替えられるのです。とてもシンプルな事実です。あなたは生かされます。あなたは生き生きと動き始めることになるでしょう。
神が、あなたの心を入れ替えるのです。神が、あなたを回心させます。神があなたを、イエスと共に十字架につけ、そしてあなたを、イエスと共に復活させるということが、そこに起こるのです。自分で計画しないままに、突然に、光なるイエスが、あなたを襲うのです。