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よいこになれないわたし
七五三の習慣がある日本では、この時期に、子どものための祝福式を設ける教会は多い。6月に「花の日」という、アメリカ由来の子どもの日があり、これを重んじる教会もあり、5月の祝日の「こどもの日」を逆に「家族の日」として扱う場合もあるようだ。家族の形態も多様性をもつようになり、「母の日」や「父の日」、「こどもの日」というものが、かつての既成概念の通りには運ばなくなったことも、こうした行事に影響するものなのかもしれない。
会堂には、子どもたちもいる。おとなしく過ごしている。説教に先立って、牧師が一人ひとりを抱き上げ、手を置いて祝福する。そう、抱き上げるのだ。福音書のイエスが、幼子に対してしたように。小学生の中には、かなり背の高い子もいて、牧師が腰を傷めないか心配する一幕もあった。ただ、かなり時間を使うほどに、教会には子どもたちがいる、ということは、確かに恵みであった。
子どもの賛美歌の中に、「どんなにちいさい ことりでも」で始まるものがある。この幼稚園が附属した教会での愛唱歌であるということだが、その3節に「よいこになれない わたしでも かみさまは あいしてくださる」という歌詞がある。本日の礼拝は、予定通りマルコによる福音書の連続講解説教でありながら、この歌詞を軸に展開した。正に今日のメッセージに適うものであったのだ。
まだ1章である。本日開かれた箇所は、初めてイエスが口を開いて出た言葉であった。
14:ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、
15:「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信じなさい」と言われた。
洗礼者ヨハネのことも当然気になる。そもそもヨハネは、ユダヤにおいて常識的なほどに、重要な人物であったはずだ。どの福音書もヨハネを呼び出す。ヨハネの名を出せば、それを引き継ぐような形で現れたイエスに権威が与えられる、といった流れで、イエスを登場させるのである。そのヨハネからイエスは洗礼を受けた。霊を内に受けた。そして、荒れ野でサタンの試みを受けたが、天使が仕えることとなった。
ここまで受身であったイエスが、いよいよ立ち上がる。ヨハネは捕らえられた。イスラエルの救いを指し示したヨハネからイエスにバトンが渡されたのだ。そうして、イエスが最初の声を発する。
15:「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信じなさい」
説教者はここに、いくつかの注目点を一つずつ挙げる。①時が満ちた ②神の国 ③福音 の三つである。
①時が満ちた つまり、もう待たなくてよい、ということである。
②神の国 つまり、神の支配がここにある、ということである。それは、抽象的な理屈ではないし、口先だけのものでもない。この目で見えるもの、この耳に聞こえるもの、そしてこの手で触れることのできるものが、ここにあるのだ。
③福音 まさにそれは喜びの知らせなのである。
こうして、いまここに、神の国が始まっていることを宣言したのであるが、説教者はこれらをつなぐ、極めて重要なエポックを指摘する。神の側からすれば、先の三つで事足りるのであるが、人間の側からすれば、このエポックがなければ、この三つとは無関係になってしまうのだ。
それは、「悔い改め」である。
日本語でそう言うことには吝かでないが、訳語としては問題がないわけではない。説教者は注釈を入れる。日本語で言う「悔やむ」ことではないのだ。そう、原語のニュアンスは「方向転換をする」ことである。神の方を向いて生きていなかった人間が、ヒマワリが太陽を追うように(それは本当のことではないともいう)、神の方に向き神と結びつく生き方をするように変わることを言うのである。
それだけなら、ちょっとした解説を読んだら、誰でも説明できる。だが説教者は、この神との結びつきというだけでない、新たなイメージを聴く者に示した。それは、「帰る場所がある」という意味をそこに含ませたのだ。というのは、旧約聖書の世界では、この「悔い改め」ということは、主に「立ち帰る」という表現で盛んに伝えられていたことだからである。主の方を自ら向く、それも悪いことではないが、主に帰ることができる、さらに言えば、神に居場所を与えられる、というふうに、「悔い改め」を捉えたのである。
それはまた、「神の国」というところこそが、キリスト者の「居場所」なのだ、という強いメッセージにも聞こえてくる。だとすれば、それはなんという福音であることだろう。福音とはそもそ「よい知らせ」という語からできている語である。ここで「福音を信じなさい」という、イエスの初めての言葉が、「悔い改め」と見事につながり、重なるのを強く感じたものである。
ここで説教者は、自分の出会った人の話をする。それはイスラム教徒の留学生であったという。キリスト教の礼拝に参加はしないのだが、どういうわけか礼拝後の夕方、牧師に、話をしに来ることがよくあったらしい。留学生は問いかける。「何故日本人は、神なしで生きていて平気なのか」と言うのだ。人は過ちを犯すだろう。悲しみに暮れることがあるだろう。そのとき、神なしでは、「どこにも行けない」ではないか、と。
先の話からすれば、「帰る場所がある」あるいは「居場所がある」ということを、その問いかけは教えてくれることなのだろう。究極的には、神の国であろう。だが、それは本日の子どもの祝福式へとつながってきた。というのは、幼稚園の卒園者が、その何十年も経った後に、懐かしく、そして自分を取り戻すために、幼稚園のところに戻って来てみるという実例があった、というのである。
「よいこになれない わたしでも」、その賛美の歌の響きが残る場所に、戻って来たい気持ちが生まれる。精神的に、そんなわたしを抱きしめてほしくて、ここに来る。それが神の懐ということなのだろう。なぜなら、「よいこになれない わたしでも かみさまは あいしてくださる」からである。
説教者はまた、ルターの逸話を語る。たとえばいまでも「牧師」という職業には、重いものがのしかかってくることがあり、精神的に冒されることがあるだろうことを想像して戴くとよいかもしれない。友人の牧師が、いまでいう鬱のようなことになったのだ。
私たちにおいても、自責の念の強い人を思い浮かべることができる。私も、あるときそういう渦の中に巻き込まれた。そこから絶望に陥った――が、それもどこまで本当に陥ったかどうかは分からない。本当に絶望したら、迷うことなく命を絶ったことだろう。だがそこまではできなかった。それは、自責ということの真実ではなかったのではないかと考えている。さらに言えば、自責のポーズだけをとっていた、とも言えると思うのだ。だとしたら、それはよけいに醜いことでもある。
ルターの友人の牧師が果たしてどういう状態であったのか、私は知らない。ただルターは、自らの罪を自ら抱え込んでそれっきりになってしまうのは、キリストの救いをいわば信じないことにつながることと考えた。自責の念に囚われてしまうということは、実は罪を小さくしていることにほかならない。キリストの救いがその程度のことしかできないものとしてしまっていることになるからである。自分の罪は大きすぎる、などと考えているのだとすると、キリストにはそれが背負えないもの、と決めつけるわけだから。
罪は十分大きいだろう。それはいくら大きくてもよいのだ。キリストはその大きな罪をも担うことができることが分かるだろう。逆に、私たちが勝手に、自分の罪をキリストに購えないと尤もらしいことを口にするならば、それはキリストを小さくすることになってしまうのである。キリストにはこの問題は解決できないのだ、などと判断する自分とはいったい何者なのか。
自分の罪を知ることは必要なことだ。「悔い改め」という日本語に縛られず、神の方を向くように、いままで知らなかった方向に視線を、そして体を向き換えよう。ダイヤル式の鍵がその番号にきっちり合うように、適切なところに向きを定めよう。そうやって見やったところ、それは私が帰る場所なのだ。それが、神の用意した私のための居場所なのだ。
説教者は「頑迷固陋(ころう)」という難しい言葉まで持ち出して、神の方向が分からず、なおかつ自分の正しさに固執するような頑固さの中にある、私たち人間の性(さが)というものを覚るように、仕向けた。力強い説教だった。どんな罪を抱えているとしても、その重荷を下ろすことができる場所が、必ずある。イエス・キリストの十字架を見上げるときに、その場所を見つけることができる。
その機会を、待つ必要はない。いつでも、どこでも、イエス・キリストはそこにいる。私たちを基準にするならば、ここにいる。「よいこになれない わたしでも」いいのだ。むしろ「よいこになれない わたし」だから、キリストの救いの真実を知ることができる。そうだからこそ、罪を知り、罪を赦すキリストが分かるのである。
復活の後に、再びマルコ伝を最初から読み、イエスと出会って見たまえ。このマルコ伝の連続講解説教は、初回に特別編として、マルコ伝の最後を開き、スタートに戻れというメッセージを届けた。私たちは1章から読み、イエスとの出会いを経験するべき旅を改めて始めている。そこでイエスの声を聴いた。そのイエス宣教の声は、「福音を信じなさい」という結論で結ばれた。それは神の国、神の支配する世界が始まることの告知であった。
神の国は、いまここに始まるのだ。「よいこになれない わたし」の、いま、ここに。