死が死ぬ第二の死
黙示録の連続講解説教も、いよいよ20章まで来た。説教者は、この1年余り、黙示録を読み続けてきたことを少し振り返った。
選択のモチーフは何だったか。ひとつには、戦争の勃発もあるが、まずはコロナウイルスの登場である。世界中に拡大して、世紀末の姿を映像などで映し出したものは、近年人類が忘れかけていた、疫病の恐ろしさを伝えていた。説教者は、大江健三郎が息子の光さんをひとつの素材として、旧約聖書から題材をとった小説を紹介した。すぐに探してみたが、なかなか高価のようである。どうやらいまは、電子書籍が最も入手しやすいようだ。こうして私の周りから本が消えることはない。
もうひとつは、教会内で葬儀が続くことであった。団塊の世代、あるいはそれ以上という年齢の方が増えに増えた教会である。亡くなる方が次々と現れることは、ある意味で仕方のないことなのであるが、黙示録はそこに慰めを贈ることができるかもしれない。正にいま病の内にある方が、幻を与えたということも言えるかもしれない。
20章は大きな話題が三つあると思われるから、これを別々に説くことも可能だったが、説教者は一度に進もうとした。ここには、いわゆる「千年王国」、「火と硫黄の池のサタン」、それから「命の書と裁き」が挙げられている。最初と最後には「第二の死」という話題が登場する。これらをすべてひとつの説教に盛り込むのは、普通に考えて無理である。だから、焦点をはっきりさせていた。この説教では、ひとつのことだげが伝わればいい、聴く者の心に残ればいい、という情熱があったのであろう。
死も陰府も火の池に投げ込まれた。この火の池が第二の死である。(黙示録20:14)
「第二の死」があるからには、「第一の死」がある。これが、「死すべきもの」としての人間にほぼ必然とされる「死」である。しかし、イエス・キリストを信じる者は、「死」で終わることがない。「復活」がある。
わたしはまた、多くの座を見た。その上には座っている者たちがおり、彼らには裁くことが許されていた。わたしはまた、イエスの証しと神の言葉のために、首をはねられた者たちの魂を見た。この者たちは、あの獣もその像も拝まず、額や手に獣の刻印を受けなかった。彼らは生き返って、キリストと共に千年の間統治した。その他の死者は、千年たつまで生き返らなかった。これが第一の復活である。(20:4-5)
こうした背景を説明するとなると、膨大な言葉が必要となるだろう。だから説教者は、20:14の「第二の死」に関することのほかは、思い切って割愛した。的を絞ったのである。
ところで、加藤常昭先生の説教全集の『ヨハネの黙示録』に目を通している、と説教者は言った。あまりそういうネタバレを語るのはよくない、というのが常識かと思うのだが、それだけ先生を尊敬していることと、ある意味で正直に明かすことを是としたその心が、現れてくるようであった。私が購入したことをご存じのはずだから、私も遠慮なく手を伸ばしてそこを開いた。確かに、本説教はそこを参考にしたらしいことは、よく分かった。
そこでも、力を入れて注目させていた言葉があった。さりげなく読まれていると、うっかり聞き逃すところであった。事実、先ほど引用したところに、引っかかりがなかったとしたら、私たちは眠りこけていたのかもしれない。再び引用しよう。
死も陰府も火の池に投げ込まれた。この火の池が第二の死である。(20:14)
「第二の死」とは、肉体的な死というよりも、霊的な死である。それは、神の愛から切り離されることであり、説教者の言葉で言えば「神から棄てられる」ことである。その「第二の死」は「火の池」であるが、そこへ投げ込まれたのが、「死」と「陰府」であるというのだ。つまり、「死も陰府も」「第二の死」を受けた、ということである。
要するに、「死と陰府が死んだ」というわけである。「死が死ぬ」、これはトートロジーのようでありながら、そうではない。このような言い方を、普通私たちはしない。自動詞の名詞形がその自動詞の主語になっている形である。「走りが走る」とは言わないが、「流れが流れる」はあってもよいかもしれない。「違和感を」とくれば「覚える」であろうが、「違和感を感じる」という言葉遣いは、聞くことが少なくない。だがこれは目的語である。主語ではない。
ということは、「死が死ぬ」において、主語の「死」と述語の「死ぬ」は、レベルが違うのであろう。主語は「死」という何かしら特定のことであるのに対して、述語の「死ぬ」は、その主語そのものとは関係なく、一般に「死ぬこと」つまり終わることや命がなくなることを意味するものと見なさざるをえない。
恐らく、聞く者は誰もが、それを直感することだろう。だから説教者も、敢えてそこを分析するようなことはしなかった。「死」がなくなったのである。効力がなくなったのである。つまりそれ以後、もはや「死」がない、ということなのである。イエス・キリストが死に打ち勝ち、永遠の命の座に立ち、信じ従う者に対しても、命を与えるという場面になったのである。
そのことは黙示録においても、この先「もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない」(21:4)という慰めの言葉を用意している。
実はこの直前にも、「死と陰府も、その中にいた死者を出し」(20:13)というフレーズがあった。明らかに「死と陰府」は擬人化されている。わざわざ「擬人化」などという意識を当時の人がしていたかどうか、知らない。箴言では堂々と「知恵」が擬人化されていた。
たとえサタンが「死」をもたらすような業を用いたとしても、そのサタンが敗北してしまったのであっては、その「死」も効力をもつことはあるまい。その意味で、もう「死」には「働く力」がないのである。
なお、「陰府」も独特の語であるが、ギリシア語で「ハーデース」という。死者の国を支配する神の名であり、もちろん神話の中で物語がつくられているが、プラトンがソクラテスの最期の場面を描くときに使っている。魂の不死をソクラテスが語るのである。魂だけがハーデースへと趣き、真理を知ることになる、というふうなことを言う。もちろん、聖書はそんなことを言うわけがないが、新約聖書をギリシア語で書く場合、ギリシア人が神話によって「死の世界」を指していたこの言葉を用いた、ということなのであろう。
説教者は、サタンについて、あるいはマゴグのゴグについて、そして千年王国説についても簡単ではあるが触れている。それを再録するのがここでの目的ではないので割愛する。だが、説教の締め括りに会衆にかけた慰めの言葉は、幸いなるかな、という響きと共に、次の言葉を説くものであった。
第一の復活にあずかる者は、幸いな者、聖なる者である。この者たちに対して、第二の死は何の力もない。彼らは神とキリストの祭司となって、千年の間キリストと共に統治する。(黙示録20:6)
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