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出会いと喜び

マルコによる福音書の連続講解説教は、先週から始まった。先週は、16章の復活に関する記事が、1章に戻ることを示唆している、という点に気づくためのもので、これからマルコ伝を読むために必要な姿勢をもつためのものだった。
 
今日は、その最初から説き明かしが始まる。マルコ伝の指定箇所は、1:1のみである。つまり、2週間で、やっと1節だけ進んだことになる。
 
マルコは、この「書き出し」に苦労しただろう、と説教者は推察する。文学作品でも、冒頭部分には作家は悩むという。訂正原稿がそのまま遺っているものを見ることがあるが、1枚目からものすごく変更がなされているのが通例である。近年は、電子処理をするために、その修正の跡が分からなくなった。作家にとっては、この電子機器時代は実にありがたいものであるだろうが、文学研究者にとっては味気ないと言えるかもしれない。
 
私もいつも言うものだが、「福音書」というジャンルは、マルコが史上初である。いわば神の人生を語るのである。どう書けばよいのか、先例がない。しかしマルコと呼ばれるこの著者は、それをやり遂げた。あるいは、何か勢いでやったのかもしれないし、それ自体が聖霊に身を任せて書いた、と言ったほうが妥当なのかもしれない。
 
マルコ伝の冒頭の一語は、ギリシア語の「アルケー」であった。先週紹介された通りである。さて、この言葉は、恐らくある聖書の箇所を意識したのであろう、と考えられる。説教者は、もう1つ開いた聖書箇所として、創世記の冒頭を選んでいた。
 
初めに神は天と地を創造された。(創世記1:1)
 
もちろん、ここはヘブライ語である。だが、旧約聖書は、イエスの時代、すでにユダヤ人にとっては、ギリシア語で読まれるのが普通であった。ヘブライ語はもはや特殊なものに過ぎず、ギリシア語の方が通用していたのである。
 
このギリシア語標準訳は伝説の訳であるが、その伝説については割愛する。先の創世記の最初は、そのギリシア語では、「エン・アルケー」から始まっている。「エン」は、英語の「in」に相当する。「初めにおいて」と理解できる。
 
マルコ伝の場合は、「神の子イエス・キリストの福音の初め」と名詞形だったために、冒頭の語は「初め」の「アルケー」だった。創世記のギリシア語訳の場合は、「初めにおいて」なので、冒頭第一番の語は「エン」となった。だが、当然その意味するところとして、「初め」という語が最初である、と言ってよいはずである。
 
マルコが、この創世記のギリシア語訳を知らなかったはずがない。ここを意識して、マルコ伝の1:1のスタートを「初め」としたのだ、と推測することは、全く無理のない話である。マルコにしてみれば、今から綴るこの福音書が、「新たな創世記」であるのだ、という気概に満ちていたのだ。イエス・キリストによる、新たな時代がここから始まる。その宣言が、創世記の再来であることを読者に知らせ、また実際に、今度は「福音の初め」なのだ、という事実を宣言したかったのではあるまいか。
 
説教者は、このようなことを踏まえた上で、マルコの心理をさらに分析する。それは、「もう一度イエス・キリストに出会い直す歩みを始めてほしい」と願っていたのだ、ということだ。これから始まる新しい歴史に、読者を、聴く者を、「巻き込んで」いくという表現を説教者は用いた。この福音書に、私たちは巻き込まれているだろうか。巻き込まれていないと、イエスに出会うことにはならないのだ。
 
今日の説教では、この「出会い」ということが、隠れた大きなテーマであった。また、実際に説教者もこの言葉を強調した。
 
一番大切なことは、イエス・キリストに出会うことです。
 
ある方のエピソードが紹介されたが、この場ではご紹介することは遠慮する。ただその話から、「イエス・キリストのほうから、私たちに会いたがっている」というフレーズが心に遺った。私たちが神に近づくことに躍起になる必要はない。神のほうが私たちに近づいてきてくださる。聖書にはそのような考え方が含まれている。イエスにパンを求めて追いかけた群衆のことは、イエスはあまり好い印象には迎えなかった。むしろ、イエスのほうから訪ね歩く旅が、そこにあった。
 
もちろん、求めることは大切である。いまの私たちなら、神に祈るということをするだろう。だが、多く祈ればよいというものでもない、と説教者は知っている。言葉数が多ければ祈りは聞かれる、と考えるのは勘違いだ、とイエスも言っていた。だから簡潔にこう祈れ、というのがイエスの導きだったが、今日の礼拝説教での主眼は、マルコ伝の始まりの受け止め方である。それはマルコ伝全体の受け止め方の象徴であるとも言えるだろう。ちょうど、詩編がまず「幸い」で始まっていたように。
 
マルコ伝の冒頭は、創世記の冒頭に匹敵することを、マルコは狙っていたとしよう。すると、ここで紹介するイエス・キリストという方は、いまから新しいことを創造するのである。この世界を、もう一度新たに始めるのだ。私たちもまた、新生という新たな命を生きるようになるだろう。そして、その新しい命は、新しい人生は、喜びの中にあるのだ――本日の礼拝説教の、もうひとつの焦点は、ここにあったに違いない。
 
この人類史上初の文学としての「福音書」は、あなたとイエス・キリストとの出会いの場となるのである。そしてそれは、「喜び」と共に始まり、「喜び」にきっと追いかけられるようなものとなることだろう。イエスのほうが、私たちのところに来てくださるのである。事実、神は人となって、私たちの世界へ来てくださった。そのことによって、この世界は新たに創造されたのである。
 
この後、説教者は話題をペトロに向ける。ペトロの手紙一の最初のところを用いて、まるでそこが聖書箇所として開かれたかのように、語り始める。理由はある。マルコ伝の著者とされるマルコは、どうやらペトロの通訳をしていたのではないか、という説があることである。キリスト教会に伝わる古い伝承であると思われるが、そうだとすると、ペトロの手紙というものを、マルコ伝と結びつける意義はある、と言えることになるだろう。
 
手紙は、試練が襲う困難な時代の中で、信仰によって人々が守られていることを知らせる。それ故、そこに喜びがあるのだ、としている。もちろん、これで試練がなくなるというわけではないが、喜びはそれに勝る、と励ます。そうして、次のように高らかに唱う。
 
あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛しており、今見てはいないのに信じており、言葉に尽くせないすばらしい喜びに溢れています。(ペトロ一1:8)
 
キリストを見たことがなく、今以て見ているわけではないのは、私たちも同様である。聖書の言葉は、いまここへも届いている。それは、確かに私たちを「巻き込んで」いる。私たちは、イエス・キリストとの「出会い」を経験したのだ。その意味では、過去の信徒たちと、変わることがない。
 
果たして私たちに「試練」があるのだろうか。先輩たちに比べると、のほほんと生きているだけではないのだろうか。生温く、神の口から吐き出されてしまうようなあり方をしていないだろうか。いつの間にか世にすっかり染まってしまい、世と同じ価値観に陥り、あまつさえ、世の価値観から逆に聖書を分析してみせるようなことまでしていることはないのだろうか。私は、この点を問いたい。もちろん、まず自分自身に問わねばならない。だが同時に、クリスチャンと名のる者たちすべてに、問いかけなければならないと考えている。
 
説教者はここで、今月から教会で公式に採用することにした、「聖書協会共同訳」について言及した。この訳は、科学的な知識の修正に留まらず、近年の聖書解釈をも取り入れて、かなり大胆な変更を行っている。その中で、「信仰」とこれまで訳されていた部分を、「真実」と訳した件について、触れたのだ。これらの訳は、同一の原語について、訳し分けられている。
 
問題は、ただ「信仰」という語が置かれている場合である。それは、人間が神を信じる「信仰」なのか、それとも、イエス・キリストのほうが私たちに示す「真実」なのか、方向の異なる2つのことが、訳語ひとつで解釈されてしまう怖さがあるのである。他方、私のひとつの見解は、その原語に伴う「信」という概念で示すことである。人間から神への「信」があり、神から人間への「信」がある、と表現するのである。日本語では、前者の場合、「信仰」と呼ぶ。「仰ぐ」意味が添えられている。後者では「信頼」あるいは「信実」の感覚で捉えるようにしたい。これだけでは十分ではないが、原語もそれ以上は触れていない以上、後は一人ひとりが自分と神との関係の中で、受け止めればよいと思うのである。
 
そこで私は、私にとり大切な言葉であった、次の聖書の箇所を思い起こす。
 
私たちが真実でなくても
この方は常に真実であられる。
この方にはご自身を
否むことはできないからである。(テモテ二2:13)
 
説教者が繰り返したことには、ペトロはイエスを棄てたのだという。確かに、イエスを見棄てて逃げたということは、そうであるに違いない。そして三度主を知らないと否んだことは、最大の黒歴史であったはずである。恐らくペトロもまた、生涯そのことを、繰り返し人々に語っていたことだろう。福音書はこの事件を、隠すことなく、福音の大切な要素として伝えている。
 
説教者は、ここで意識を反転する。ペトロはイエスを棄てた。だが、イエスはもちろんペトロもだが、この世を棄てなかった。そしていまなお、棄てやしないのである。
 
だからまた、これは福音なのである。私たちはダメダメである。だが、イエス・キリストは常に真実なのである。私たちが自分に絶望しても、神は私たちを手放さないのである。これが、「喜び」でなくて何であろうか。
 
説教者は、最後に念を押す。イエス・キリストは、かつての業を今なお止めていない。今もまた、私たちと出会ってくださる。私たちは出会ったではないか。否、今日私たちは、この礼拝で、イエス・キリストに出会ったではないか。十字架の主を見たではないか。復活の主を見たではないか。主は、その救いの業を、喜んでいる。私たちがそれを信じて、喜びの生活をいまここから始まることを、喜んでくださっている。
 
「出会い」が「喜び」をもたらした。さあ、目を上げて、マルコ伝を、私たちはこの「信」から、経験し始めよう。

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