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短い詩でまとめられている
詩編133:1-3
神学校でだったと思う。一日少なくとも1章は聖書を読むことが義務づけられていたけれども、これがなかなか辛いことがありました。そこで詩編131,133,134編といったところを開き、そこばかりを何度もノルマとして読んでいました。――京都の牧師が、冗談のようにしてそのようなことを話すことが常でした。それらは、3節までしかありません。
この中でも、特にこの133編は、イスラエルの人にとり今もよく愛されている詩だと聞いています。生活の場は、人の人生の中核にあるように思います。仕事の業績ばかりが歴史的には注目されて取り上げられますが、幸福感を仕事でしか味わえないような人は稀でしょう。「兄弟」という語が、必ずしも血の繋がった関係だけを表すのではないとします。
すると同胞あるいは同志のような視点で捉えるべき様々な人を、「兄弟」の範疇に入れてよいかと思います。核家族だけで終わるような考え方ではなかった時代です。客人すら大切に扱う文化では、親しい友は、血縁以上の重要性があったのかもしれません。この友愛により結ばれた関係とそれに基づく生活は、「かぐわしい油」に喩えられています。
その油は、アロンの髭に滴り落ちる、とまで言っています。イスラエルの歴史の中で初代の祭司に関係する幻です。また、豊かな産物をもたらすことへの言及であるかのように、「ヘルモンの露」にも重ねられ、「シオンの山々に滴り落ちる」ものだとうたっています。他の詩であったら、こうした恵みや名誉あることについて冗長な説明もなされたでしょう。
しかしこのダビデによる短い詩では、あっという間にまとめにかかります。「主はそこで祝福ととこしえに及ぶ命を定められた」と、すぐに結んでしまうのです。ダビデが自身の兄弟を想定していたかどうかなど、たぶんどうでもよいのでしょう。都上りの歌です。エルサレムに集まる人々の喜びとつながつて、民の一致と国の栄をうたっています。