知恵と哲学 (箴言3:13-20, コロサイ2:6-8)
◆幸い
聖書には、ひとつの大きなテーマがあると私は理解しています。神は、人に「幸い」を与えようとしているのではないか、と見ているわけです。イエスの言葉が思い出されます。マタイ伝5章の「山上の説教」の初めです。
3:「心の貧しい人々は、幸いである/天の国はその人たちのものである。
4:悲しむ人々は、幸いである/その人たちは慰められる。
5:へりくだった人々は、幸いである/その人たちは地を受け継ぐ。
6:義に飢え渇く人々は、幸いである/その人たちは満たされる。
7:憐れみ深い人々は、幸いである/その人たちは憐れみを受ける。
8:心の清い人々は、幸いである/その人たちは神を見る。
9:平和を造る人々は、幸いである/その人たちは神の子と呼ばれる。
10:義のために迫害された人々は、幸いである/天の国はその人たちのものである。
これらは元のギリシア語で、冒頭が「幸いだ」で始まっていることは、非常に有名です。先ず「幸いだ」と宣言してから、それがどんな人であるのか、を述べるのです。
詩編というものがあります。聖書全体の中程にあり、人間の口による詩が基本で、全部で150編集められています。この編集にはひとつの意図が感じられるのであって、詩編第1編の冒頭は、次のようになっています。
幸いな者/悪しき者の謀に歩まず/罪人の道に立たず/嘲る者の座に着かない人。(詩編1:1)
詩編の最初は、「幸いな」から始まっているのです。因みに、第150編の末尾は「主をたたえよ」です。詩編は幸いに始まり、神の賛美で結ばれているのです。私はここに、見事な調和があるように感じているのですが、如何でしょうか。
◆知恵
今日は、「箴言」から共に聞くようにしました。「箴言」から私が聞いたからです。「箴言」は「詩編」の次に位置し、「知恵文学」のひとつだと見られています。ソロモンの名が冠せられているものも多々ありますが、史実性は疑われています。
アフォリズムとでも言うべきでしょうか、短い断片が多いのですが、時にそれが集まって、一連の物語を呈しているようなところもあります。これはなんらかの格言集となっているのではないか、と見る人もいます。
興味をお持ちの方は、ぜひいろいろ調べてみてください。この「箴言」の第1章の頭からは、このように流れて行きます。
1:イスラエルの王、ダビデの子ソロモンの箴言。
2:これは知恵と諭しを知り/分別ある言葉を見極めるため。
3:見識ある諭しと/正義と公正と公平を受け入れるため。
4:思慮なき者に熟慮を/若者に知識と慎みを与えるため。
5:知恵ある人は聞いて判断力を増し/分別ある人は導きを得る。
6:箴言と風刺を/知恵ある言葉と惑わす言葉を見極めるため。
7:主を畏れることは知識の初め。/無知な者は知恵も諭しも侮る。
ここだけを見ても、「箴言」の主役は、どうやら「知恵」というものであろうことが分かってきます。今日はこの「箴言」の3章の途中から、正にその「知恵」を与えられたいと願っています。そこは、まずこのように始まります。
13:幸いな者とは知恵を見いだした人/英知にあずかった人。
この「知恵」は、どのように見いだされるのでしょうか。どこから見いだすべきなのでしょうか。「箴言」からすると、これはどうしても「神から」であるほかはありません。「知恵」とは「神の知恵」であり、しかもそれは、「言葉」によって表されます。「知恵」とは、「神の言葉」である、と受け止めても構わないと私は思っています。また、それは大きく外れていることはないと信じています。
こうして、いまや「箴言」もまた「旧約聖書」の「知恵」の一部であり、「神の言葉」として受け止められるようになっています。私はそれでよい、と考えています。
◆幸いと知恵
13:幸いな者とは知恵を見いだした人/英知にあずかった人。
ここにあるのは「幸いな者」という、聖書の大きな目的のひとつでした。ここでいう「幸いな者」とは、イエスの山上の説教に並べられたようなタイプとは違いました。詩編が掲げたような、悪しき者に同調せぬ者、というようなタイプとも違いました。「箴言」が掲げる「幸いな者」とは、「知恵を見いだした人」であり、「英知にあずかった人」でありました。
おや、この「知恵」と「英知」とはどう違うのだろう、とお考えの人もいるだろうかと思います。原語でも、もちろん別の単語が使われています。しかし、日本語でもそうですが、同じ一つの語を何度も並べるのは、文章として好まれません。もちろん学術論文ならば、ころころ変更してはならないのですが、文学的な効果としては、いろいろ語を変えるものです。そうでないと、ボキャブラリーが貧困だと思われるし、表現も単調になります。ユダヤでもそうです。言いたいことはひとつであるときにも、様々に語を変えて、厚みのある表現をつくります。
つまり「英知」も「知恵」と別のものを指すものではない、ということです。ここには20節に「知識」と訳されている語がありますが、これもまた別の語でありながら、別のものを意味するというようなことはありません。19節と対句のようになっていますから、「主の知識」とは「主の知恵」と同じものを意味していることは明らかです。
いま、今日お開きした箇所を、駆け足で眺めていくことにしましょう。
14:そのもうけは銀による利得にまさり/その収穫は金にまさる。
「もうけ」や「収穫」は、いわばこの世での実利です。聖書は、そういうことを無視はしません。しかし、それを最後の目的とはしません。ここでも金銀に勝る、と言っています。そうなると、この「もうけ」や「収穫」は、神から与えられる財のようなものの比喩ではないでしょうか。つまり、本当にこの世の実利のことを言いたいのではない、ということです。
ですから、「聖書を信じれば祝福され、金持ちになれます」というメッセージで何十万人と信徒を集めていたメガチャーチがあったとしたら(あったはずです)、人の気を惹くだけのものでしかなかった、というふうに受け止めてよいかと思います。
16:知恵の右の手には長寿/左の手には富と誉れがある。
17:知恵の道は友愛の道/その旅路はいずれも平安。
「知恵」には、「長寿」や「富と誉れ」が伴うと言います。人間関係においては、「友愛」や「平安」が伴うと言っています。これもまた、神を信じればこの世で幸福になれます、と言いたいのではないことを、ご了解戴きたいと願います。
15:知恵は真珠よりも貴く/どのような財宝もこれに並びえない。
こうして「知恵」の価値は、「真珠」や「財宝」よりも大きいものであることが強調されます。もっと値打ちのあるものが「知恵」であるというのです。
◆知恵は命
「知恵」がその人にとり、結局は益をもたらす、というようなことが、ここまであれやこれやと表現を替え、レトリック豊かに述べられてきました。しかしここからあと3つの節は、少々ダイナミックに大きなスケールで恵みが描かれます。
18:知恵は、それをつかむ人にとって命の木。/知恵を保つ人は幸いである。
「知恵」こそ、創世記以来、イスラエル民族が「永遠」のものとして憧れ続けてきた、「命の木」である、というように読めます。但し、「それをつかむ人にとって」という但し書きがあることにも気を配りましょう。知恵を「見いだした人」、英知に「あずかった人」が幸いである、と先ほど言っていたこととも、つながる道がここにあるように思います。
私にはそれが、客観的なものとしてそこにある、それが幸いや命をもたらす、そのように受け止めるようには勧められていないように感じます。聖書を、研究対象として、あるいはひとつの文献として読み解くのとは違うと思うのです。あるいはその研究をいわば商売道具として用いるようなこととは、断じて全く違う、と言わざるを得ません。
「知恵を保つ人は幸い」だというのは、またしても「幸い」で最後に括る、素晴らしいまとめになっています。ここまでの具体的なあれこれの幸いの演出は、ここに「幸い」として集約されていることになります。しかし、聖書を客観的な対象として取り扱うようなことには、この「幸い」はない、と私は体験的に捉えています。そこには、「幸い」もなければ「命」もないとしか思えないのです。
私もまた、気をつけたいと思います。この原理を忘れないように。神の言葉は、信仰と共に働き、生きたものをもたらす、ということを、決して忘れないようにしたいと願います。
◆科学
19:主は知恵によって地の基を据え/英知によって天を定められた。
20:主の知識によって深淵は分かたれ/雲は露を滴らせる。
ここが最もダイナミックで、大きなスケールで語られていると私は感じました。この「知恵」は、創世記に関わるというのです。主はこの「知恵」によって、「地の基を据え」「天を定められた」と宣言します。この「知識」即ち「知恵」によって、「深淵は分かたれ」「雲は露を滴らせる」というように、自然現象が営まれることを伝えています。
神は世界を創造し、そしてその後の自然の秩序もコントロールしている、というような感じで受け止めてよいでしょうか。
神が書いた2つのもの。1つは聖書。もう1つは自然である。――そのようなことを、ガリレオ・ガリレイが言っている、と聞いたことがあります。宇宙は、神の書いたものだ、という信念は、自然界には美しい「法則」がある、ということを信じることであり、それを探究し始めたのが、いまでいう科学者たちでありました。
彼らは最初から「科学者」と呼ばれていたわけではありません。元来こうしたことを考え、調べる人は「哲学者」であったのです。近代哲学の祖ともいわれる17世紀のデカルト、近代哲学の集大成をなしたともいわれる18世紀のカントは、どちらも科学の分野で大きな業績を遺しています。当時は、いまでいう科学と哲学とを特に区別する必要はなかったのです。
と、このようなことを語り始めたら、もはや神を礼拝する言葉ではなくなってしまいます。カルチャーセンターででも聞けばよい内容ですし、今どきは検索すればいくらでも調べることができます。とにかく、ニュートンにしてもデカルトにしても、この世界は神の定めた美しい秩序をもっている、ということを信じて疑いませんでした。しかし、やがてヨーロッパの人間は、神なしでも理屈をつくることができるではないか、と思う方向に進み始めます。科学の知識は、自然を専ら利用するために用いるとよいのだ、という理論を自らに言い聞かせるようにして、暴走を始めてしまうのです。
こうなったとき、自然を支配して利用するように聖書が教えている、というふうに言い始めて、鬼の首を取ったような顔をする人も現れます。しかし、西欧人が聖書を神の言葉と考えなくなったときに、自然を支配することを自らに許したのですから、考える順序が逆なのです。
おまけに、その科学の成果を十分利用して得をしている者が、この科学が悪だと批判することにおいて、恐らく例外はないと思います。私たちが科学を批判し検討するのは、科学のあり方をもう一度定めようとする方向からであって、科学を否定するためではありません。実のところ、それを真摯に営もうとすることこそ、哲学なのです。
◆哲学
ところが「哲学」と聞くと、虫唾が走るクリスチャンがいるようです。
空しいだまし事の哲学によって、人のとりこにされないように気をつけなさい。(コロサイ2:8)
もうこのひとつの言葉によって、「哲学」は「だましごと」だと思い込んでいる人が、いるのです。あるいは、そのように説教壇で声を張り上げる説教者が、残念ながらいるのです。
聖書を熱心に読むのはよいことですが、このような説教を叫ぶ人が現にいるとなると、それは悪を垂れ流しているように思えてなりません。日本では、哲学を学校で教えないのです。哲学の「て」の字も習わずに高校・大学まで終わってしまうのが、通常の教育となっています。フランスでは、哲学の試験を通過しなければ、高校を卒業ではなかったのではないでしょうか。その試験とは、テーマに関する論文であって、大学入試の「倫理」のような知識とは全く違います。
日本人が少し哲学をかじると、自分の思い込みを主張して相手をねじ伏せることに使おうとする場合があります。いわゆる「論破」という流行は正にそうで、あんなのは哲学でも何でもありません。むしろ哲学から見れば幼稚で、無知をさらけ出しているようなものです。わけの分からない理屈、ひねくりまわしても論理の「ろ」の字も知らないような声が、その殆どです。
聖書と「哲学」が相性が悪いところに戻りましょう。哲学は元来ギリシア文化に基づくものでした。これをヘレニズム文化と呼び、聖書世界のヘブライズム文化と対比させて捉えることがよくあります。西洋文明は、この2つの文化が合流して作られている、というのです。尤も、ケルトやラテン、ゲルマンなど、民族的な要素も多数含まれているのが通例なのですが、大きな流れを2つに見ることは、決して悪いことではないと思います。
キリスト教勢力が、ローマ帝国の国教にまでなり、ヨーロッパの歴史の中で教会が政治的な力をもつようになってゆく中で、哲学は、聖書の神学を正当化するために用いられるようになってゆきます。これを差別的な古い言葉ですが「神学のはしため」と呼んでもいました。哲学は、神学を基礎づけるために用いられました。そのうち、針先に天使が何人とまれるか、などといった無用とも思える議論に拘泥するようになったと揶揄されますが、哲学は、理性的に納得のいく形で神学を説明するためには、確かに役に立ちました。
しかし、教会の権力が低下する時代が来ます。聖書に基づかない、ギリシア・ローマ文化が命を吹き返します。それから、人間の自由が称えられ、理性が神学から解放されると共に、この世界を「神なしで」説明することができる、とされるようになります。教会の定めが制圧することができなくなってくると、自由な理性を用いた理論が、人々に受け容れられていくようになります。哲学は、神なしで世界を考察するように働きます。このとき、科学が姿を変えてゆくことになります。神の自然を称えるために被造物を扱うのではなくて、自然そのものを探究し、またそれを「技術」を用いて自由に取り扱うようになると、急速に科学は発展してゆきます。
近代のこの延長に、私たちの時代があります。こうした歴史を踏まえた先に、私たちは立っています。近代人が見いだした主観・客観という見方から、多くの現代人は、決して自由になっていません。そのような空気の中で、あの頃最初の言葉「空しいだまし事の哲学」を、哲学の本質と思い込んでしまうのは、明らかに不合理であり、危険なことではないか、と私は危惧します。
◆知恵を愛する
そもそも「哲学」という日本語が問題です。明治初期に、西周という哲学者が現れ、「芸術」だの「意識」だの、多くの日本語をつくりました。西周は当初これを「希哲学」としてみましたが、「希」を取った「哲学」という言葉を文部省が決めたことから、定着したと言われています。「希哲学」とは、「知を求める」というような意味合いを含んでいます。
「哲学」は、元はこの頃最初にもあるような、「フィロソフィア」であり、いまは英語などでも殆どそのまま用いています。「ソフィア」は「知恵」であり、「フィロ」は「愛する」ことです。どちらも聖書で有名な語です。
そして、いまの私たちが受け継ぐ哲学の祖といわれるのは、ソクラテスです。プラトンが書いたソクラテスの問答(対話篇)の中で、この「知を愛する」ということの重要性が語られており、ソクラテスも自分のしていることをこの「知を愛すること」だとしています。
言葉の成り立ちからしても、意味からしても、これは「愛知学」と読んで然るべきものでした。これは、哲学を学んだ人なら誰でも知っている、初歩の初歩の知識です。これを知らない人がいるということ自体が、日本に哲学教育がなされていない証拠として挙げることができると思います。
この「知」とは、正に新約聖書でいう「知恵」のことです。もしこの語が聖書で使われているのならば、知恵を愛することそのものが悪いはずがありません。コロサイ書では、なぜ「空しいだまし事の哲学」などと言ったのでしょうか。知恵を悪用する者がいるから騙されるな。そう言いたかったのではないか、と私は思っています。
私の捉え方では、理屈で尤もらしいことを言って信仰を邪魔する者がいる、と注意しているように見えます。いまでいうなら「論破したがる者」をイメージしてよいかもしれません。「詐欺師」に従うな、と言っているようなものです。さらに言えば、さも霊的な現象であるかのように堂々と言い放つ「スピリチュアル」の世界がそれに当たり、好き勝手な思いつきを本にする「霊言」なるものも、明らかにそういうものです。それらは、「知恵」の看板を掲げる詐欺行為にほかなりません。
私たちは真の「知恵」は信頼すべきではないでしょうか。「箴言」では、その「知恵」が盛んに現れていました。その「知恵」は、新約聖書を知る者から見れば、どうしてイエス・キリストの姿が重なってくるような活躍をします。イエス・キリストのメタファーとして「知恵」が現れた、と考えて当然なのです。
イエス・キリストの言葉、神の知恵は、聖書からすれば、幸いをもたらす知恵だと私たちは捉えてきました。この知恵を愛するという形で、「哲学」がもう一度進み直すことはできないでしょうか。「神なしで」済ますように流れた歴史に待ったをかけて、神の知恵を、神の言葉を愛する信仰を、人類はもう有ち得ないのでしょうか。
こんなことを言うと、それは「盲信」を勧めるのか、と訝しく思う人がいるかもしれません。そんなのはナンセンスだ、聖書を無謬だと言う奴はバカだ、と蔑む人は現にいます。聖書の無謬性とは、科学が規定するような意味ではないはずですのに、科学的論理からするとそれは「盲信」だ、とせせら笑うのです。科学を制御していたはずの「哲学」の無さが、そこに証明されているようにしか、私には見えません。
イエス・キリストという「知恵」を「愛する」ことは、聖書のエッセンスであったはずです。そのような意味での「哲学」を大切にしたいと願って止みません。否、哲学が最も大切だと言っているわけではありません。「知恵を愛する」というよりも、「イエス・キリストを愛する」という言葉で表現しましょう。それが聖書を貫く「幸い」の道であることを、聖書は示しているのですから。
幸いな者とは知恵を見いだした人
英知にあずかった人。(箴言3:13)
2024.10.13.(日)
ルカ9:57-62 従うことの難しさ
ある人がイエスに言います。イエスが行く所、どこへでも従って行く、と。これに対してイエスが言います。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない」と。従ってくることへの警告を発したのでしょうか。生半可な気持ちで軽々しく「従う」などと口にするものではない、と教えたということなのでしょうか。
「どこへでも従って参ります」とは、文字通りにはできないはずのことです。イエスの場合は、特にそうです。十字架の死へまで同行するということは、誰ひとりとしてできなかったのです。しかしイエスはこの後、別の人に「私に従いなさい」と呼びかけています。人にはできないことなのに、我に従え、とはどういうことなのでしょうか。
生き物には塒(ねぐら)というものがそれぞれあります。安らぐ場所を、それなりにもっています。けれどもイエスには、それがありません。強いて言えば、十字架の上で頭を垂れたとき、そこにイエスの一つの安息があった、と見る人もいます。しかし、真の安息は、神の国を待ちしかないでしょう。但し、神の国へ入るイエスは、復活を経ていました。
復活の前には、死があります。イエスは死を経験してこそ、復活したのです。人もそこに与るためには、死を経なければなりません。生命としてというよりは、霊的に死を経るのです。イエスは、威勢のいい最初の人ではなく、別の2人の人物に、従え、と声をかけました。すると、父を葬ることや、家族に別れを告げることが優先される態度をとりました。
イエスはここで2人に、「神の国にふさわしくない」と厳しいことを言いましたが、葬儀や肉親への別れの言葉まで退けるとは、なんとも冷たい態度のようにも見えます。但し、即座に従わなかった2人を見ると、私たちは思い起こします。ペトロたち漁師や収税所のマタイは、こうした断りを一切言わず、直ちに立ち上がりイエスに従いました。
それこそが「神の国」にふさわしい、ということを聖書は言おうとしています。父の葬儀を口にした人に対してイエスは、「しかし、あなたは行って、神の国を告げ知らせなさい」と命じました。従うな、と言ったわけではありません。私たちもここから出て行って、神の国を大いに広めようではありませんか。変に振り返らず、前を向くのです。