知らないことに気づくために
坂本真綾さんのラジオ番組で聞いた。お店で瓶ビールを注文したとき、店員に「おちょこはいくつお持ちしますか?」と尋ねられたという。偶々何か言い間違えたのかと思っていたが、もちろん届いたのはジョッキであった。当の店員は、別のテーブルでも同じように言っていたそうだ。無粋だろうから敢えて説明はしないが、ビールを飲むために「お猪口」を使う人は、まずいないだろうと思う。
毎月テーマを決めて話題を募る番組で、「些細な気になること」を、自分からまず発表したのだった。知らないということは怖い。誰かが直してあげればよいのに、誰も直してくれないので、恥ずかしいことを続けることになるというわけだ。
この放送を受けて、次の週には、リスナーから正直な告白が届いた。「おちょこ」は知っています、でも「あつかん」と言われて、知らなかった、と言うものだった。
昔、我が家で父が使っていたのは、いわゆる「ちろり」であった。取っ手があり注ぎ口をもつ金属製のコップで、それを湯煎すると、燗の具合が分かりやすいのである。
すでに、話が通じていない人が多いかもしれない。そもそもそれが日本酒の話だということが、想像できていない可能性もある。文化が及ばなければ、それにまつわる言葉は通じなくなる。日本酒文化も、もはや共有されなくなっているのだろう。
子どもたちに、言葉が通じなくなってきていることは、幾度かこの場で触れてきた。もちろん私たちが子どもの頃にも、当時の大人の言葉は難しかった。昔のものは知らないよ、という世代を生きていたのは間違いない。戦後の変化は、高度経済成長という進歩的な雰囲気の中で、新しいものが次々と現れる景色を見せた。同時に、旧式のものは廃れていった。いまもまた、そうしたことが起こっている、とも言えるだろう。
少し前の「歌」には、「ダイヤルを回す」とか「切符を切る」とかいう、当たり前の情景があった。先ほどの「熱燗」も、フォークソングの歌詞の中にすら普通にあったのだ。他方、子どもたちに「生活経験」がどんどん貧しくなっている、という危機を指摘する声もある。家庭の中で手伝いなどの役割をもたされなくなったことから、生活のための技法を全く経験することがない場合があり、当たり前のようなことも「知らない」ということが頻繁に起こるようになっているのだ、と。これも事実だとすれば深刻である。
ともかく、大人の側からすれば、知っているはずだろう、と思い込んでいることが、全く通じない、ということが多いのは確かである。授業ではさすがにそうしたことに慣れてきたから、もう「知らない」ということを前提に話をすることには慣れてしまったけれども、日々子どもたちに触れていないと、そうしたことにも気づかない可能性が高いかもしれない。
わずか数十年でこれなのだから、「古典がちんぷんかんぷん」と言われるのも無理はない。すでに夏目漱石は「古典」でしかないのであって、「所謂」も「所以」も「併し」も若い人たちに読めなくてもおかしくはない。いまや副詞は漢字表記をしないのが原則だから、それはそれでよいのだが、これでは戦前の本には近づけなくなるだろう。私はそういうのが好きだったし、旧字体の使われた本も、ほぼ抵抗なく読めていた。それはよかったと思っている。
こうした背景があるせいか、「古典を勉強する意味が分からない」という声が高まっている。「数学を勉強して何になる」というのは昔からあったが(もちろん深い意義がある)、最近は古文と漢文に対する風当たりが強い。使わない言葉を学ぶ労力が勿体ない、などというように、効率重視で、面倒くさい気持ちを理論武装しているケースも少なくない、とは思う。
これだけ情報が簡単に手に入る時代である。ひとつ分からないと図書館に出かけ、大学の閉架の部屋に入らせてもらい、あれこれ探して、一つの情報を手に入れたような時代からすると、打ち込んでキーを押せば数秒もかからないで知りたいことが分かるというのは、殆ど魔法である。
だが、情報が溢れているということと、知識や見識の拡大ということとは、必ずしも比例はしていない。むしろ、自分の興味のあるものだけしか志向しない精神は、知る領域を狭くしている場合すらあるだろう。電子辞書は便利だが、自分の狙ったピンポイントだけを返してくれるわけで、紙の辞書(この言い方自体がなんだか奇妙に感じるのだが)のように、探していなかった周辺の語が目に入って視野が広がるという経験を得にくいのだ。
SNSの場には、そうした狭い自分の視野によると思われる現象が、しばしば見られる。自分がこうと思い込んだ意見だけが真理であり、それに反する意見を述べた人間を、簡単にバカ呼ばわりし、その人間性までも否定するのである。それが、かなり平気で言い放たれているわけで、「炎上」というのも、そうした事態から起こっていることが多いと思われる。他人には他人の視野があり、自分とは別の地平を見ている、という従来の常識ともいえる前提が崩れているようなのだ。
こういうと、若者がそうなっている、などと溜息をつく年配の人が目に浮かぶかもしれないが、事はそれほど単純ではない。むしろ老年ほど、凝り固まった価値観をもつ故に、簡単に相手を否定し、罵倒するという様をしばしば見かける。
私もそうかもしれない、と懸念する。聖書について語れない者が礼拝で語っていることについて、断固としてノーを突きつけている点を、頑固だと思う人もいるだろうとは思う。ただ私は、その人が信徒でいることについては、何の問題も感じていない。教会に連なることについて、誰をも排除してはいないのである。しかし、かけ算九九を知らない人が算数の教師をすることができないように、聖書を体験的に「知らない」人は、礼拝説教をすることができない、と言っているだけである。
しかしその「知らない」ことを当人もうまくごまかしているために、気づかないという場合もある。また、そもそも説教内容に関心がない会衆ばかりであることから、誰がどう語ろうと、多様性を認めよう、などという教会も、あるかもしれない。ついには、信仰のない教会であるべきだ、という多様性にならなければよいが。
教会の「文化」も、変貌しているのかもしれない。「信仰」にも「説教」にも関心を抱かないで、カルチャーセンター程度にしか考えていない人たちが増えてきたように見えることもある。しかしその割には、誰かのために役立とうという空気も薄くなっていることがある。地域清掃をしようなどということもなくなり、内に閉じこもって、一人ひとりの居場所をつくろう、などと言っているようでは、カルチャーセンターですらなくなってしまうだろう。
それでいて、自分たちは、聖書を知らない人よりも偉い、というような心づもりでいるとするならば、そこはもはや「教会」と呼ぶことの許されない場所になってしまっていることになるだろう。
知らないで犯す罪もある。神にそれをも赦してほしい、という祈りの言葉もある。だが、信仰を知らない、というのは、土台が間違っている。いくらか古い信仰書にでも触れて、救いの基本を黙想する、ということが望ましい時代ではないかと思う。そうすれば、「何かおかしい」ことに、気づかされるかもしれないからである。
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