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何を献げるのか

宗教法人格をもつ政治団体が、ようやく社会問題化されるようになり、その「献金」が問われている。「金を献げる」と書く、この「献金」。やはり神に献げるというのが、原義ではないかと思われる。昔中国では、犬を献げていたのだろうか。いまでは、政治の世界でも「献金」が普通になり、そこには必然的に利権問題が絡んでくるようにも受け取られる。
 
キリスト教会でも、当たり前のように「献金」がある。礼拝の席上での献金もあるし、毎月の献金もある。それは決して「会費」ではない。各自か示されるままに献げる、というのが基本となっている。それは、聖書の記事に基準を置くとされている。
 
それは、信仰の行為のひとつである。礼拝説教は、信仰生活を援けることをモットーにしていると考えると、「献金」についての説教は、時折なされるべきであると思われる。
 
だが、牧師が説教者である場合、少しそこにブレーキがかかるのだ、という話があった。献金の一部は牧師の給与となるためだ。献金をしましょう、という話が、聞く人によっては極めて人間的なものに聞こえないとも限らないのである。
 
繰り返すが、献金は信仰の行為である。信仰を勧める語りの中には必要である。私たちは、それを「お金を献げる」という意味でのみ受け止めるべきではない。よく話された逸話に、少年が、礼拝で回ってきた献金袋に入れるお金がなかったので、自分がその中に入ろうとした、というものがあった。自分の名を書いた紙をそこに入れ、自分のすべてを神に献げる思いを示した、という話もあった。
 
では、礼拝説教で「献金」について語ろうとする。聖書箇所はどうするか。旧約聖書のマラキ書やレビ記には、「十分の一」という基準が登場する。他方、新約聖書からすれば、ルカ21章の、いわゆる「やもめの献金」が典型的である。言うなれば、ベタである。信徒も長く務めていれば、その箇所が開かれたとたんに、どういう話を牧師がするか、だいたい筋書きが分かっている気分になる。せいぜい、誰かのエピソードが出てくるのだろう、という程度の期待しかもたない可能性がある。
 
イエスはエルサレム神殿にいた。ルカによる福音書のイエスは、エルサレムをひたすら目指して進む姿が印象的である。十字架の救いと復活の栄光が、神の出来事のひとつのハイライトであり、地上を旅するイエスは、ただその特異点に向けて前進してゆくのである。従って、エルサレムにいるということは、その特別な事件が、もう間近だ、ということである。
 
神殿である。賽銭箱がある。献金箱と呼んでもいい。そこには金持ちが、献金を入れている。マタイによる福音書は、施しをするときにそれが目立つためにラッパを吹き鳴らす演出をすることが、愚かなことだとイエスが話している様子を描いている。いまエルサレム神殿の賽銭箱に入れる金持ちの姿も、多額の献金をしていることがやはり人目につくようにしていたのだろう。社会的ステイタスのためにも、それは名誉なことなのであった。
 
イエスが目を向けた先には、貧しいやもめもいた。単純比較はできないが、私たちの感覚にすると、パンが一つ二つ買える程度の金額ではないかと思われる。二枚の銅貨を、彼女は賽銭箱に入れた。そんな低額を献げたところで、神殿のためにどれほど役立つかは分からない程度のものだった。献げた本人がどのように思っていたのかは知れないが、もしかすると、このくらいしか入れられないのを恥ずかしいという思いもあったかもしれない。だがおそらく、私はそうではないと推測する。これしかない。これくらいしか自由に使えるお金がない。でも神さま、私はこれをあなたに献げたいのです。そんな切実な、血の出るような叫びを心の中に響かせながら、箱に入れたのではないかと想像するのだ。
 
イエスは「真実に言うのだ」という前置きをしてから、このやもめが、誰よりもたくさん入れたのだ、と言った。意表を突く言葉である。理由は、言うなれば自分の財に対する割合が一番多い、ということであった。現代の私たちにも、その論理は分かりやすいのではないかと思う。何%を献げたのか、というと、やもめが一番割合が高いことになるからである。
 
ところで、これをイエスは誰に向かって言ったのか。この献金の場面(ルカ21:1-4)だけを見ると、まるでイエスが独り言を呟いているかのように思える。しかし、そうではない。弟子たちに対してか。それもあるだろうが、ポイントはそこではない。
 
この逸話の直前で、イエスは、律法学者に厳しい非難を浴びせている。これを聞いているのは「民衆」だと書かれている。
 
20:46 「律法学者に気をつけなさい。彼らは長い衣をまとって歩き回りたがり、また、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを好む。
20:47 そして、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。」
 
直接的には、民衆に向けて言っているに違いない。だが、私は思う。これは、律法学者に向けて言っているはずだ。それに気をつけるのは民衆であり、現にそこにいるのは民衆である。だが、律法学者こそ、これを知らねばならないはずなのだ。さらに、イエスがこれらの言葉を向けているのが、読者であり、いまここにいる私たちであるとするならば、私たちにおいて「律法学者」というのが誰のことなのか、それを問わねばならないと思う。
 
イエスが言うには、彼らは「やもめの家を食い物にし」ているのだという。だから、この場面の直後で、やもめが主人公になったはずなのである。彼らはその上「見せかけの長い祈りをする」のであるが、彼らは「人一倍厳しい裁きを受けることになる」のだという。それに対して、やもめのほうは、それほど長い祈りを献げた様子はない。だが、見せかけでない、深い祈りをしたはずである。これで自分はこの世で頼るべき金銭をあなたに献げました、あとはあなたが私を生かしてくださることを信じていますから。この切実な祈りは、形だけの祈りとは比較する術もない。
 
さて、ここまで、今回の説教者の語ったことは殆ど触れていない。それではレスポンスにならないかもしれないから、そちらに領域を移すことにしよう。
 
21:4 あの金持ちたちは皆、有り余る中から献金したが、この人は、乏しい中から持っている生活費を全部入れたからである。
 
ここに「生活費」という訳語が見える。だが、ルカが用いたその語には、「費」という言葉は使われていない、というのだ。使われているのは「生」のほうである。私たちがいま「バイオ」と呼んで、生命科学などのときに使う、その「生命」を表す語なのである。これはよいことを指摘してくださった。「彼女が持っていた生命のすべてを投げ入れた」のである。
 
そして、説教者はここから、やもめと私たちとについて、またそれを見つめる神の眼差しも気にしながら、次々とアングルを変えて語り続けた。それは恰も、やもめを主人公として、そこに定点的にカメラを置きながらも、他の登場人物の表情や心理を問うために、時折カメラを切り替えるような効果をもっていた。
 
そのとき、実は巧みに言葉を言い換えていたことに、私は気づいた。やもめが献げたのは、訳語としては「生活」費である。だが、それを献げて「生きる」ことを放棄するようなことはなかった、という。却って真の「生命」を「生きた」ことになる。決して自分の「人生」を恨むようなことなく、「人生」のすべてを神に預けたのであった。このように、献金は「生命」を、「人生」を、「生活」を、神に預け委ねる「生き方」の問題だったのだ、と説いた。
 
ここで「 」で示した言葉は、英語で言うならばすべて、名詞ならば「life」を使い、動詞ならばそれに関する「live」を使ってよいはずである。日本語だといろいろ切り替えて表現するものだろうが、それらには基本的に「生」という漢字を共通にもつ。たとえば「信仰」とか「信頼」とか「信実」とか訳し分けている言葉が、聖書では元々同じひとつのものであるわけだが、どれも漢字で「信」が共通しているように、ここでやもめをとりまく説教のエッセンスは、場面で「生命」「人生」「生活」と分けて表現しながらも、すべて「生」の概念で貫かれていたのである。
 
やもめは、自分の「生」を、金に委ねたのではなかった。しかしイエスは、直前で指摘していた。律法学者が律法を守りいつしか自己義認に夢中になってしまい、人からの栄誉を求め、神にすべてを委ねるやもめを苦しめるような言動をとっていることを。そこには「生」がない。「裁きを受ける」とは、そういうことなのである。
 
説教者はそれから、このときのイエスの立場に気づかせた。これは十字架の直前の出来事なのだ、と。十字架の先には、永遠の生命があった。永遠の命を、信じる者に与えるプロジェクトにさしかかっていたようなものだ。ここには、「生」があった。正に「生」を、神は与えようとしていたのだ。
 
どうかすると、ありきたりの教科書的な説教になる危険があった。だが、「生」という概念を指摘することによって、その説教が、まさに「生命」を届ける神からの言葉となった。聴く者の「人生」を変える力をもつ言葉となった。キリストにある者の「生活」を見直す言葉となった。そのようにして、神の出来事が、ここから始まるのだ。それは、人を「生かす」言葉となったのだ。
 
そのようにオーケストラの楽器が響き渡った後に、静かに印象的なソロパートが流れた。「献金は、献身のしるしです」と聞こえた。「献金」も「献身」も、「生」を神に献げることに違いないことが、聴衆に伝わった。最後にそのメロディは一度しか流れなかったが、「献身」という言葉が、聴く者の心に、突き刺さるのだった。

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