サマリアの女と霊・真理
ヨハネ4:19-24
サマリアの女という呼び名だけで、どんよりとした空気が漂ってきます。ユダヤ人が軽蔑していたサマリア人。不幸な歴史があるとはいえ、外国人に占領され、混血となっただけでなく、その信仰の歴史も混交のものとなってしまい、純粋性を失ったとして、ユダヤ人からは徹底的に毛嫌いされ、差別されてきたのがサマリア人という存在でした。
人は、大きな違いについてはもう端から違うとして相手にしませんが、似た者でありながらどうしても交われない違いが少しあるときに、それは自分とは違うものだと反抗する気持ちが湧き起こります。同じ東洋人の間の差別は、嫉妬も混じるものなのでしょうか。わずかな差異を激しく感情的に嫌い、遠ざけるものは人の常であるのかもしれません。
ユダヤ人にとりサマリア人は忌まわしいものでしたが、さらにここに登場するのが女です。男の社会故に、女は不条理に差別されてきました。それはいまも解決されたとは言えません。日常的な差別が、当たり前のようになされているのです。ここに、イエスは介入しました。水を機に対話を始め、女の素性を言い当てることで女の信頼を得た形となりました。
あなたは預言者なのか。女が自分のことにそれ以上言及されたくないと考えたのかどうか知りませんが、礼拝のことを問います。サマリア人とユダヤ人との間の最もデリケートな問題をぶつけてきます。それは「礼拝」でした。いったい、神を礼拝するとはどういうことなのか。女の問いがたとえ逃れる方策であったとしても、イエスは喜んだのではないでしょうか。
よいか、礼拝するとは……これはもちろん、筆者ヨハネの仕掛けである可能性が高いものです。サマリア・女、こうした忌避されるべき対象を通して、唯一なる神と人との関係を明らかにする一つの道を用意できたわけです。サマリア人はまだこの方と真に出会ってはいないような言い方をイエスはしています。あるいはこの方とはイエスのことなのでしょうか。
さあ、まことの礼拝という扉を開けようではありませんか。偽りの礼拝、思い込みと自己満足の偽礼拝に気づこうではありませんか。必要なのは、霊と真実とによる礼拝なのです。ギリシア語でいうプネウマとアレテイア。人間の側に求められる信仰を頼りにするのではなく、神の命に関わる霊とイエスその人でもある真理、ここに注目させているのです。