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死は終わりではない

聖徒の日。教会ではしばしばそのように呼ぶ。亡くなった方を偲ぶ役割ももつ。1年に一度、その間に天に招かれた教会の方々について思う礼拝が開かれる。もちろん、中心は神である。間違っても、死者を礼拝するようなことはあってはならない。しかし、その遺族を招き、魂の慰めを受けるひとときである場であってもよいと思う。
 
仏教の盂蘭盆に近いかもしれないが、西欧でもそういう習慣はあった。宗教改革のあの挑戦状は、万聖節と呼ばれるこのような趣旨のお祭りの前夜祭に発された。歴史を変えたリスボン地震は、その祭りのときに起こった。だからこそ、教会への信頼が壊滅的に崩れたのだ。
 
さて、その説教で選ばれた聖書箇所が、鍵となる。中心には、詩編23編が選ばれた。詩編の中でも最も有名と言ってよいものであろう。また、黙示録からは次の一句が選ばれた。
 
また私は、天からこう告げる声を聞いた。「書き記せ。『今から後、主にあって死ぬ人は幸いである。』」霊も言う。「然り。彼らは労苦を解かれて、安らぎを得る。その行いが報われるからである。」(黙示録14:13)
 
しかし、やはり辿るのは詩編23編である。長くないのですべて掲げることにする。
 
1:賛歌。ダビデの詩。/主は私の羊飼い。/私は乏しいことがない。
2:主は私を緑の野に伏させ/憩いの汀に伴われる。
3:主は私の魂を生き返らせ/御名にふさわしく、正しい道へと導かれる。
4:たとえ死の陰の谷を歩むとも/私は災いを恐れない。/あなたは私と共におられ/あなたの鞭と杖が私を慰める。
5:私を苦しめる者の前で/あなたは私に食卓を整えられる。/私の頭に油を注ぎ/私の杯を満たされる。
6:命あるかぎり/恵みと慈しみが私を追う。/私は主の家に住もう/日の続くかぎり。
 
牧歌的だと感じる人がいるかもしれないが、情況はかなり切迫している。ここには「死の谷」が意識されている。「災い」が現にあると思われる。「鞭と杖」で追い払わなければならないほどに、敵が目の前にいるのだ。偶々、良い羊飼いがそれを払ってくれるに過ぎない。また、「私を苦しめる者」がいる。「命あるかぎり」とわざわざ言うのは、限られた命が目の前に迫っているからだ。
 
説教者は、この1年のみならず、これまで幾多の教会員を天に送ってきた。可能ならば礼拝の会堂に棺を運び、共に神を礼拝する機会を設けた。もちろんそれは遺体であって、その人と共に、というような発想をすること自体が、神の教えにはそぐわないかもしれない。だが、共に主を拝した友のひとつのシンボルとして、仲間たる者が集い礼拝する場に、棺があること自体を、拒む理由はないだろう。そもそもキリスト教会が初期において、カタコンベと呼ばれる墓所に、葬られた仲間と共に祈りを献げていたと考えられている。その死者は、墓に葬られたイエスを象徴している、とも見られる。復活への祈りは、そのような場にこそ相応しいと言えるかもしれないのだ。
 
こうして、詩編23編は、死者との関わりの中で、本日は繙かれた。「死の谷」とは、いま死にゆく人との間を裂くものと見なされる。末期(まつご)の場で、いくらその手を握りしめようとも、谷の向こうに行ってしまったその人へは、しばしその手の温もりはもう届かなくなってしまうのである。但し、説教者は力強く宣する。人としての自分は、もはや死者の手を握ることはできないが、そこからは神がその手を握り続けていてくださるのだ。
 
神は鞭と杖を手に、死者の歩みの先頭を歩き、道を拓いてゆく。その向かうところには宴が待っている。食卓を整える、という言葉がそれを示す。詩の中には直接表現がないが、説教者はそこには、歌が流れている、と語る。歌は、かつての恵みを思い起こし、またこれから先についての勇気を与えるであろう。イエスと弟子たちも、園に祈りに行くときには、賛美の歌が必要だったのだ。牢にいたパウロとシラスは、真夜中に賛美の歌を歌っていたのだ。底に、神の力が働いたのである。
 
こうした歌は、私たちの内から思わずこぼれる喜びの歌なのだろうか。説教者は、違うイメージをその礼拝空間に描く。その絵は、信じる者には誰にでも見えるものであり、だが肉の眼では決して見えない幻である。これまでの羊の情景もそうであった。そしてこの歌声もそうであって、キリストにある者には、聞こえる声がある。
 
それは、自分の内から聞こえる、と見るのが自然であろう。だが、それはかなり羨ましいケースだ。神が、あるいは神の霊が、自分の内に生きて居て、自分の内に耳を傾けることによって、神の心を知る、というレベルにあるとすれば、全く素晴らしい限りである。だが、安易に自分はそうしている、と考えないほうが適切であることを、私は自戒を込めて警告する。
 
自分の心の声を優先させるような形で生きるのは、確かにいまの時流に乗っていると言えるのかもしれない。自分探しはもう30年も前からポピュラーになった考え方だが、自分を信じるとか、自分に頼るとかいうことが、如何に危険であるか、もうそろそろ誰もが気づいて方がいいだろう。自分の心のままに生きるというのは、実のところ流されるということだ、と説教者は言った。但し、だから今度は外からの何かに従う、と安易に走るのも危険である。そこには、恐ろしい狼が待ち受けているかもしれないからである。純朴な人を、偽りの宗教が、どれほど不幸に陥らせたことだろう。キリスト教を名乗っていても、それは一律善だと確約できないのである。
 
さて、賛美の歌の話であった。詩編という歌を私たちは歌う。如何にも神を信じきった者が、ひたすら単純に神を称えているように、傍からは見えるかもしれない。だが、説教者は非常に印象深い言葉でこの点に釘を刺した。詩編の歌は、「私たちの心に逆らって歌う歌」だというのである。
 
ズキンときた。私たちの自然の性質は、本来詩編のような言葉を拒むはずなのである。そしてもしかすると、実際に建前で歌っているかもしれないのである。しかし、私たちは歌う。神の前で歌う。神に向かって歌う。それは、常に歌っていないと忘れてしまうかもしれないような、信仰の表明である。ここで私は、最近ウェブサイトの世界で話題になっている、「ニッシンボー」の宣伝の動画を思い出してしまった。AIで描かれた猫たちが、列をなして歌いながら歩く。「歌うのやめたら――すぐに――忘れる――か~ら」というところでいつも笑ってしまうのだが、ここへきて確かにそうなのだ、と我が事として感じたのだった。
 
説教は、良い羊飼いとしてのキリストに目を移す。羊のために、しかも一匹の羊のために命懸けで探しに出て行く羊飼いであり、ついには羊のために命を落としたキリストである。この羊飼いは、羊である私のために、何をしてくださるのだろう。「緑の野」があり、「憩いの汀」がある。そのようなイメージを豊かにもたらす。そしてまた、「死の陰の谷」へも目を向けさせる。
 
先ほどの死者との別れとはまた別に、私たちはそれぞれ自分自身の中の「死の陰の谷」があっただろう。黒い歴史があり、辛い思い出が蘇るだろう。一人ひとりが過去をもち、その過去に引きずられながら生きていることがある。あるいは、突如フラッシュバック現象があり、過去に縛られて動けなくなることがあるかもしれない。
 
他方、キリスト者にしか聞こえない声があることに私たちは気づいた。それは外から来る。キリスト者が喜びをもてる一つの大きな理由は、自分の中だけからしか答えを探さなくてよいことなのだ、というような意味のことを、説教者は冒頭で発していた。自分の内から湧き起こる言葉ばかりを頼らなくてよいのがよいことなのだ、と。救いの言葉は、外から来るのだ。それは、新しく来る。上から来る。神から私へ向けられて届けられるのだ。
 
その言葉は、現実の神の業と力となって、私を追いかけてくる。神の恵みや慈しみが、追いかけてくる音が聞こえてくるのだ。なんという喜びになることだろう。神は私を見捨てないのだ。私を決して忘れないのだ。時に悲しみが、愛しい人との別れが、襲うかもしれない。だが、そうした別れまでに確かに存在した、良き過去もまた、神の言葉は包みこんで離さないのだ。神は忘れない。神はそれを失わせない。神の中に時は区別されないから、そこにあるのは永遠の命だけである。しかも、イエス・キリストが、それをすでに成し遂げてくださった。追いかけてくる恵の足音は、キリスト者の耳には、キリストの足音として聞こえてくるだろう。
 
説教者は、聖徒の日のための説教を締め括る。死の陰の谷は、墓で終わりはしない。その先に、天の祝宴が待っている。魂は生き返り、命と喜びが満ち満ちていることを知る。
 
聖書の大団円とも言える黙示録が言っていた。「今から後、主にあって死ぬ人は幸いである」との言葉が響いてくる。「主にあって」とは、「主に包まれて」と言ってもいい、と説教者は言った。ギリシア語の言葉そのものは、「主の中で」の感覚をもっている。それを「包まれて」と色づけるのは、翻訳としては決してやらないことである。だがそれは、説教というものの醍醐味であるに違いない。

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