アモスになろう
アモス4:12-13
あの地震の2年前に預言をした羊飼いアモスの言葉。祭司でもなく知識人とも思えない、いわば素人の言葉ですが、イスラエルの危機を叫び、それが遺されています。イスラエルの宗教的道徳的堕落が、まるで地震による破滅を呼び起こしたかのようにも読めます。おまえたちが主に反した生き方を続けた結果、主が地震を起こしたのだ、のような。
でもそれは人の側の捉え方でしょう。宗教はどうか知れないが、経済的には繁栄しているではないか。そんな声が飛んできそうです。それはいまの社会も同じ。経済的発展があれば、宗教などどうでもよいではないか、道徳がどうのなどと言うのは、経済をだめにしようとしてのエリート意識なのかよ、とせせら笑う声が聞こえてきそうです。
いまやSNSの時代、そんな呟きが四方八方から飛んできて、アモスの声など大炎上となりそうです。昔だからこそ、アモスのこの声もそれなりに可能だったのかもしれません。イスラエルよ、神の裁きは必ずくる。この神とまみえる備えをせよ、つまり覚悟をせよ、と迫ります。悔い改めよ、というのが要するに言いたいことの要点なのでしょう。
「それでも、あなたがたは私のもとに帰らなかった」というフレーズが、リズムよく繰り返し刻まれています。そのようなイスラエルのところへ顔を向け、出会いを求める神です。いったいどういう結末になるか、考えてみよ、とアモスは問うのですが、そもそも神に背を向けて世の虜になっている群衆には、聞く耳をもつ者がいるはずがありません。
何の権威も教養もない人間が、神のもたらす世界を明らかにして全うな批判をぶつけているのですが、聞く人がいません。山々を造った神、風を創造した神が、人にはその計画をちゃんと伝えていたではないか。暗闇に光をもたらしたではないか。高慢になった大地を簡単に踏みつけたではない。戦いに負けることのない強大な神がここにいるのです。
風は霊を含んでいる表現かもしれず、人はその霊によって生かされてきました。この神を神とするはずのイスラエルの民が、なんとも歯痒い反応しかしません。しかしこの歯痒さは、いまの世界にも誰かが感じているのではないでしょうか。クリスチャンと言えば偉いのでしょうか。歴史上のみならずいまもなお、傲慢な破壊者となっていないでしょうか。
いまもアモスの存在意義はあるのではないかと思います。神と向き合う者ならば、誰でもこのアモスになれるのではないかと思います。いえ、いまアモスが現れなければなりません。アモスにならなければなりません。かの時代にイスラエルと呼ばれ嘆かれているものは、いまの時代の教会組織や指導者のことを指しているとは思えないでしょうか。