み国を来たらせたまえ (マタイ6:10, ルカ11:2)
◆国家ではなく
御国が来ますように。(マタイ6:10)
「国家」は幻想だ、と言う人がいます。「国家」というのは、どこにも存在していないのではないか、というのです。
古代ギリシアには、「都市国家」と呼ばれるものがありました。比較的小さな単位です。従って、アテネとスパルタがライバル同士であった、などという話も有名です。実にドイツでは、13世紀から19世紀まで、「ドイツ領邦国家」と呼ばれる、小さな地域毎に国家を名乗っていた例もあります。小さな「国家」です。
他方、「帝国」と呼ばれる非常に大きな力をもつものがありました。「皇帝」と呼ばれる元首が権力をもち、多くの民族を支配する形をとりました。「皇帝」は世界を牛耳るような存在であるのですが、「国家」があるならば、それが「皇帝」その人であったようなものなのかもしれません。
「国」という幻想を、集団で見せられている。そんなふうに世の中を見る人もいます。「お国のために」という「信仰」で、互いに、また自らも、命を奪っていった歴史を、私たちは凝視しなければなりません。
「共和国」は、選挙で国民が元首を選ぶ政治制度をとっている「国家」です。しかし、「朝鮮民主主義人民共和国」という名を口にするとき、私たちは複雑な気持ちになります。また、「日本国」には「共和国」という名も「王国」の名も付いていないことについても、私たちはもはや問いかけることがないのかどうか、そこを問わねばならないのではないか、とも思います。
旧約聖書のイスラエルは、「国家」だったのでしょうか。そもそも十二部族という在り方は、本当に古来あったのかどうか、そこを疑う研究者が多数います。ヤコブの子たちに由来する、ということに疑問を呈するわけです。また、しばらくそれらの部族は、緩い結びつきの中にありました。士師記を見ると、互いの部族がくっついたり離れたりしているほか、「イスラエル」部族でない周辺民族とも、関係が対立するだけでなく接近もしており、かなり流動的な形態が見てとれます。
歴史上、ダビデが統一王国を築いた、という建前になっています。けれども、その子ソロモンの死後、イスラエルは二つに分裂します。このときから、宗教的背景が「国家」の基板を成すようになったようにも見えます。イスラエルを統一したそのダビデを慕う思いもまた「集団幻想」であり、それが、イエスを「ユダヤの王」と期待した、と解釈することができるかもしれません。いえ、それこそ「信仰」と呼ばねばならないのでしょうけれども。
◆神の国は近づいて来る
御国が来ますように。(マタイ6:10)
「御国」と訳されていますが、原語の表現は「あなたの国」です。「国」にしても、それをさながら「領土」のように思い込むのはよろしくない、という点は、どの説教者も必ず触れることです。教会でいくらかでも説教を聞いていれば、もはやこれは常識として、知らない人はいないほどです。
「国」と訳されている語は、「支配」という抽象的な概念を表す語でもある、というわけです。「国土」というよりは、「神の主権が及ぶ範囲」とでも理解すべきものを意味していると言われています。
ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信じなさい」と言われた。(マルコ1:14-15)
洗礼者ヨハネから、イエスへと、福音が展開していきます。マルコ伝で、イエスが最初に発する言葉であり、イエスが福音宣教を始めるときの言葉です。「神の国は近づいた」という、マルコ伝の本格的な始まりが、非常に印象的です。
もちろん、この「国」も先の「支配」の意味の「国」ですが、それが抽象的な概念であるとしたら、それが「近づいた」というのは、どういうふうに思い浮かべればよいのでしょうか。主の祈りにしても、「御国が来ますように」でありました。それを願い求める祈りの言葉ではありますが、神の「国」が「来る」という捉え方をしていました。
いったい、神の「国」は、「来るもの」であり、「近づく」ものである、というのは、どういうことを言っているのでしょうか。それは、何らかの「比喩」の表現なのかもしれません。私たちの言葉は、ふだんから、なにげなく、また当たり前のように、「比喩」の表現を許していることがあります。「春が来た」というのが「比喩」だとは、誰も意識していないと思います。「光が注がれる」のも「鳥が歌う」のも、わざわざ「比喩」として挙げることはないだろうと思います。
「神の国が来る・近づく」について、もしかすると信仰者はそれぞれに、自由なイメージで受け止めているのかもしれません。定式的に説明ができないからこそ、比喩的な表現をしていると言えるのでしょう。イエスもまた、「神の国は比喩で話す」ことに徹していたようにも思えます。
◆いまだとすでに
神の「国」とは、神の「支配」のことだ。そこにもう一度戻りましょう。神はこの世界を支配している。この言い方を、どう思われますか。まさか。この悲惨な世界を神が支配しているというのか。神がいるならば、どうして災いがあり、正義が敗れることがあるのか、そう吠える人も多数います。悲しい気持ちから、そう叫び、あるいは義憤から、そう叫ぶのでしょう。
神の支配は、いますでにここにあるものではない。けれども、それはいつか実現するものだ。これが、概ね神を信じる人の共有できる「信仰」だろうと思われます。神の支配は、いつとは知れないが、いつかきっと実現する。その意味で、神の国は「来る」のであり、「近づく」こともありうるのだ、と考えているような気がします。
その「近づく」ものは、少し具体的に思い描くと、どういうことなのでしょうか。「神の国」は近づいて来ます。どこに着地するのでしょうか。この地上にその国の支配が成立するということでしょうか。旧約聖書では、「土地を受け継ぐ」ということが非常に大きな問題でした。そのために「嗣業」という、難しい言葉まで用いられました。私は最初、なんのことかと思ったほどです。いまでもそうかもしれません。「遺産相続」のような意味でしょうか。いえ、聖書ではとにかく「嗣業」でしかないのです。それは、約束の地カナンを基本的に意味し、神から受けた土地のことを意味するものでした。
これは必ずしも、昔話ではありません。現在のパレスチナへのイスラエルの攻撃も、この民族意識を利用した形で続けられている側面があるからです。
ヨシュア記が、その一番の根拠になるでしょうか。カナンの地に進入した、出エジプトの民は、神にもらったのだという信仰に後押しされて、実に残虐な形で土地を奪い取ってゆく様子が描かれています。なにもそこまでなされたのではないはずだ、という歴史研究家が多数おり、私も文字通りのことが起こっていたと真に受ける必要はない、と考えますが、それにしても、先住民を殺戮し追い出していく描写は、酷いものです。
これを「信仰」の上で、どう受け容れてゆくか、ということは、実は大きな問題であるはずです。もちろん、後の時代、私たちにとってはいまの世の中での常識というものから、古代の文献や歴史を単純に否定するような言動は、慎まなければなりません。
土地が与えられる。そこに神の国が与えられたということになる。この有様は、別名では「救い」という形で捉えられることがあります。
主はこう言われる。/私は恵みの時にあなたに応え/救いの日にあなたを助けた。/私はあなたを守り/あなたを民の契約とし、地を再興して/荒れ果てた相続地を継がせよう。(イザヤ49:8)
キリスト教において、「救い」とはしばしば、十字架のイエスを自分の罪の赦しとして信じ、復活の命に生かされること、というように説明されます。それは正しすぎるほどに正しい理解だと思います。しかし、もっと多面的に受け取ることも可能だと思います。神の「救い」とは、ちょっとした公式で終わる程度のものではないはずです。いつか終わりの日に、救いが完成することを、誰もが待っています。
だから、この「救い」が、これから先になされること、いつか将来に神の国が完全に実現することを意味することがあることも、分かりやすいはずです。が、「神の国」については、実に印象的なことをイエスが言った場面があります。
ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスはお答えになった。「神の国は、観察できるようなしかたでは来ない。『ここにある』とか、『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの中にあるからだ。」(ルカ17:20-21)
神の国は来ない。神の国はあなたがたの中にある。簡潔に言うと、こういう響きが耳に飛び込みます。まるで、もう来ているかのような言い方です。
しかしまた、「あなたがたの中に」を、読み誤る可能性が強い訳となっている点にも気をつけなければなりません。それは、「自分の心の中に神の国はある」と思い込んでしまうことです。「~の中に」という語は、新約聖書でも二度しか登場しない語のようですが、精神的なものを意味するようには見えません。イエスを信じる者たちの中を想定すべきです。かといって、自分たちの教会の中が神の国だ、とぬか喜びすることはお勧めできません。私たちが神の支配を受けてそれに従っているかどうかは、神の原理に則って生かされているかどうかを、「霊の法則」(ローマ8:2)とパウロが呼んだことからも考えてみたいものです。
このとき「神の国」は、すでにここにあるものとして認識されていると思います。私たちは、神の国について、「すでに」知っているとすべきでもあるし、「いまだ」完成していないものとして理解する必要があるようです。
◆神の国のイメージ
聖書に「神の国」という語が見られるのは、旧約聖書続編の「知恵の書」に、知恵が神の国を示す、とあるほかは、すべて新約聖書です。パウロの思想に関わることが少しばかりあるほかは、福音書でイエスが告げたものが多く、しかもルカ伝に非常にたくさん現れています。というのは、マタイ伝ではそれが殆ど「天の国」と言い換えられているからです。
先にも触れたように、イエスは「神の国」について、しばしば「譬」という形で語っています。直接的な説明で定義がなされ得ないからでしょう。実例的に、いわば帰納的に、「神の国」を描写して、あとは聴く者の心の中でそれをどう組み立て把握するか、受け止めるか、任せているかのうよです。イエスが口にした「神の国」について取り上げ始めると明日の朝までかかりそうですから、いまはできませんが、このように「譬」という形で語られたことについては、心に留め置いて戴きたいと願います。
神の国は、よく「婚礼」とその「婚宴」にたとえられました。幼子のようにならなければ神の国には入れない、というフレーズは、子どもたちにとって胸を張れるうれしい言葉であったかもしれません。
実際このようにして、聖書の中の「神の国」についての理解を深めるために、様々に言及されたことを取り上げてゆくことは、きっと楽しいことであるでしょう。だが、それは余りにも数の多いものです。そこで、ここではスパッと「引用」を避けることにしました。仄めかして通り過ぎることが多くなることを、お許し戴きたいと思います。
神の国に入るには、様々な条件があったかもしれません。非常に困難な道であるように示されたかもしれません。しかし、イエスという道が、狭いけれども、見出せば歩きやすいところとして目の前に現れるものでもありましょう。なにより、イエス自身が、苦難の道を歩まれたのです。そしてその先に、「永遠の命」という形で、神の国を備えてくださいました。
畑に隠された宝や珍しい真珠のようになんとしても手に入れるべきであるとか、歳末調整のように決算がなされるとかいう話もあったし、神に逆らう輩が判明し、裁きが行われるという見方もありました。
また、からし種やパン種のように大きくなってゆくイメージを与えられたときもありました。大きくなるというと、マリアの賛歌を思い出す方もいらっしゃることでしょう。
そこで、マリアは言った。
「私の魂は主を崇め
私の霊は救い主である神を喜びたたえます。(ルカ1:46-47)
その祈りの言葉の初めは「大きくする」という意味の言葉でした。ラテン語を経由して、「マ(グ)ニフィカト」などと言われるその言葉で、マリアの賛歌を代表して呼ぶこともあります。「崇める」と訳しますが、「大きくする」のニュアンスをもちます。私たちも「メガ」と巨大なものに付ける言葉がありますが、ギリシア語ではそれに直接つながります。
手話で「崇める」は、胸に両手を添えるように置き、少し俯きます。心を示しながら、自分を小さくするのです。神を崇めるということは、自分が小さくなること、つまりまた、神を崇めるということは、神を大きくするということ。これを、私たちは心に結わえつけておかなければなりません。というのは、人間は、自分を大きくしたがるものだからです。特に近代以降、それが常識となっているとも言えますが、人間の尊厳はどんどん大きくなり、相対的に、神はどんどん小さくなっていきました。人間はますます大きく、そして神はますます小さくさせられています。
しかし、神を崇める、つまり神を大きくすることなしには、神に向き合うことはできません。神の国という祈りをすることはできません。「主の祈り」の一つ前の祈り、「み名をあがめさせたまえ」の祈りに続いて、この「み国を来たらせたまえ」の祈りがなされるのも、当然のことであるように思えてなりません。
◆居場所
この「神の国」は、地上の国と何か似ている点があるでしょうか。何らかの形で、地上の「国」との類推があるからこそ、そこに「国」と呼びうる言葉が用いられているはずです。しかし、聖書を読み、またこの地上にそれなりに長く生きてくると、どうしてもそれらが同じようには考えられなくなってきます。人間は、創世記において、この地上の「管理」を任された、と理解することが近年主流になってきていますが、それなら正に管理に失敗したものと言わざるをえないと思うのです。
もちろん、聖書を理想として歩んだ文明がありました。そこに、理想国家を見ていました。人間はそれがいい、と求めて努力を重ねてきた一面が確かにあります。たとえ一種の空想上のものであったとしても、「目的の王国」という理念で示したのがカントでした。そうした理念は現実化することを望めるものではなかったのですが、同時にカントは、神をもまた、要請すべきものとして位置づけてしまいました。理想が神から来る、というふうに考え続けた人々は、次第に政治や現実から離れた、「宗教」という領域で細々と生き延びてきたことになります。
しかし、「主の祈り」はいまなお唱え続けられています。どう祈ってよいか分からないときには、「主の祈り」が口をついて出る、そうした信仰を、多くの人がもっています。そのときね「御国が来ますように」との祈りは、神の国が、あるいは神の支配が、この世界に近づいてきている、という信仰なしには祈ることのできない言葉です。
その神の国は、イエス・キリストが現れたことで、確実に近づいた、そう新約聖書は告げています。私たちは、その延長の世界の中にいます。そして、「御国が来ますように」と祈るように促されています。
やがて来ることを祈ります。それを待っています。しかし、この信仰に立たない人の中には、それはただの思い込みだ、と冷ややかに眺める人もいます。
しかし、私たちの国籍は天にあります。そこから、救い主である主イエス・キリストが来られるのを、私たちは待ち望んでいます。(フィリピ3:20)
「しかし」というのは、「キリストの十字架の敵として歩んでいる者が多い」ことを指しています。その「行き着くところは滅びです」と言い、その者たちは「恥ずべきものを誇りとし、地上のことしか考えて」いないのだ、とパウロは「涙ながらに」言っています。
これは、かなり深刻なことです。いずれまた、ここで立ち止まり、考えてみたいと願います。いまは、その「国籍」という言葉に着目します。もちろん、これが「御国」の市民権であることを指すはずである、と理解します。イエス・キリストが決着をつけてくださるのを待ち望んでいるわけですが、すでに私たちは神の国に籍がある、と言っています。私たちは、御国に登録されているのであり、そこに居場所が与えられている、というのです。
私たちは地上では、「寄留者」であり「旅人」である、と言われています。聖書は一貫して、そのような見解をとっています。そうした寄留者あるいは旅人を大切に扱いもてなすというのは、中東の旧くからの文化でした。旧約聖書の律法の書、特に申命記に著しい登場を見せるのが「寄留者」への対応です。
イエス・キリストを信じる者は、この地上には最終的な居場所をもちませんが、神の国にはそれがあるのだといいます。ヘブライ書11章には、信仰を抱いて死んだ人たちが、「天の故郷」(11:16)に憧れていたことが説明されています。「神の国」は、様々なイメージを以て、聖書のあちこちで言及されていることが分かります。
◆小さい者として
先月のNHK「こころの時代」に、西田好子牧師が出演していました。大阪の西成で、路上生活者たちに福音を伝え、「生き直し」を促している牧師です。私は関西に住んでいたことがありますから、その大阪弁のしゃべりが、すごく親しみのあるものとして伝わってきました。
福岡の北九州には、奥田知志牧師という、やはり路上生活者を支えているリーダーがいます。社会的に多くの働きかけをしていて、国会(第196回国会参議院厚生労働委員会)で発言するなど、政治的な影響を与えてもいます。ご本人は「小さな」と仰るかもしれませんが、「大きな」働きである、と尊敬しています。
それに対して西田牧師の活動は、極めて個人的なものです。最初は教師を天職と思い努めていましたが、教会に行くようになり、路上生活者と関わるようになりました。やがて、牧師としての召命を受けます。「私が飢えていたときに……喉が渇いていたときに……よそ者であったときに……裸のときに……病気のときに……牢にいたときに……」(マタイ25:35-36)と、王が永遠の命を与える人たちが、自分を助けてくれたことを明かす場面があります。小さくされていた人々を助けたか、助けなかったかで、人は裁きを受け、右と左に分けられてゆくのです。小さくされていた人々が、実は神であった、というのです。
そうして、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、私の父に祝福された人たち、天地創造の時からあなたがたのために用意されている国を受け継ぎなさい。(25:34)
すでに用意されていたように言われています。神の国は、すでにあるというのです。神の国は永遠ですから、いままでなかった、などということはなく、これまでもあった、ということなのでしょう。神の国は、すでにあったのです。一方的に将来にしかない、と言い切れるものではないように見受けられます。
但し、この「神の国」は、人間にとってのいま現在、完成してはいません。いまだ未完成に留まります。私は現にいまそこにいるのではないからです。それでも、すでに用意されているのだ、と聖書は告げます。あなたはその国を受け継ぐのだ、との言葉を与えます。
西田好子牧師は、それでいて、自分がただ小さい者を助けているだけではない、という構え方をしています。特別に気の毒な人々を教会に呼んでいるのではない、と言うのです。それは、自分もまた、小さい者の一人だからです。その自覚と共に、50歳にして、関西学院大学の神学部に入りました。牧師としての歩みは、最初に赴任した教会のあった地は、路上生活者のいない地域だったので、大阪に移ったのでした。
◆命の招待状
世界的なレベルで、多くの人の命を救った日本人として、杉原千畝さんのことが知られるようになりました。第二次世界大戦の初期において、命を狙われていたユダヤ人たちのために、ビザを発行して、海外へ亡命させたのです。もちろんビザは正式なものと見なされましたが、厳密にいえば発行することの認められないようなビザでしたが、緊急に人道的な観点から、領事館員としてその地を離れなければならなくなるぎりぎりまで、力を尽くしてビザを発行し続け、6000人ものユダヤ人の命を救ったと言われています。そのため、それは後に「命のビザ」と呼ばれるようになりました。
杉原千畝氏は、ロシア人の妻を通して、正教会の信仰を与えられます。その後、ロシアのスパイとのデマにより、離婚に追い込まれますが、やがて再婚した日本人女性もまた、キリスト者でした。杉原千畝氏は、キリストを知っていました。そのため、あれほどのことができた、しなければならないと突き動かされていたのだ、と理解できようかと思います。
私は気づかされます。イエス・キリストも、「命のビザ」を発行したのではないか、と。「ビザ」とは、「その人物が入国しても差し支えないと示す証書」のことです。神の国のためのビザには、神の国にその人物が入国してよいという証明が書かれていることになります。
但しイエス・キリストは、そのビザを発行するために、自分の命を差し出さなければなりませんでした。その命と引き換えに、私たちのために、私のために、ビザを発行したのです。そして私は思います。杉原千畝氏は、自身ソビエト連邦に吸収されたリトアニア共和国から出て行かねばならないその期間に、懸命にビザを発行し続けたのでしたが、イエス・キリストはその発行期間を、まだ終えたわけではないのだ、と思います。いまこのときにも、命のビザを発行し続けていることに、気づかされるのです。
そして、家来たちに言った。『祝宴の用意はできているが、招いておいた人々は、ふさわしくなかった。だから、四つ辻に出て行って、見かけた者は誰でも祝宴に招きなさい。』それで、家来たちは通りに出て行き、見かけた人は善人も悪人も皆集めて来たので、祝宴は客でいっぱいになった。(マタイ22:8-10)
祝宴の用意はすでにできています。だから、いま神は、祝宴に招く人々を呼び集めています。「善人も悪人も」、集めてこいと言われています。但し、イエス・キリストという道を通してしか、その祝宴の場に辿り着くことはできません。イエス・キリストの十字架こそが、そこに入るための「ビザ」であるからです。
私にも、あなたにも、その祝宴への招待状が届いています。それを受け取るだけでよいのです。すでに受け取った人が、教会にはたくさんいます。但し、どこかにしまい込んで忘れてしまっている人が、いないとも限りません。それは一枚の銀貨どころの騒ぎではありません。探してください。そして、これから受け取る人は、十字架と復活のイエス・キリストと、ぜひ出会ってくださいますように、と祈ります。