見出し画像

選挙カーが連呼する

小学校の運動会がうるさい。そんなクレームまで出てくるご時世である。選挙カーがうるさい、というのは、支持者以外は皆思っていることなのかもしれない。
 
聞けば、選挙運動としての法律に基づいて実行されているらしいが、走っている車から「演説」をしてはならないのだという。つまり、走りながら、ひたすら「名前を連呼する」だけの選挙カーなのだそうだ。
 
それって何、と思う。
 
名前を覚えてもらうのが目的なのだろうか。それほど選挙民は、バカなのだろうか。中には、選挙運動をしていることを示さないと、やる気がないと思われることを恐れている、という話をする人もいるそうだから、やむなく、という候補者もいるらしい。
 
車を留めれば、演説はしてよいという。但し、駐車違反にならないようにしなければならないとか、特別措置があるとかないとか、法律というものは、様々なケースを想定しなければならないようだ。法とは大変なものだ。さらに、音量にも規制があるというし、要望により法自体改変されているともいうから、今後もまた変更があるべきであろう。
 
本当にやめてほしいと思うことがある。学校や塾では、英語で特に、リスニングをさせることがある。いくら窓を閉めていようが、前の道を選挙カーが名前を連呼して通るのはたまらない。模試でもやっていたら、不公平のないようにやり直しを図らなければならなくなる。
 
もちろん、選挙カーによって、やっと苦労して眠らせた赤ちゃんが起こされて泣き出す、というような声はたくさん挙がっている。大音量で名前を連呼する声でそうなると、その親は、決してその候補には投票しない、と決意するかもしれない。こうなると「逆宣伝」である。否、投票はともかくとして、殆ど無意味な連呼により、住民は被害を受けるという事実が確かにある、という点は考えて戴きたい。選挙のために必要な権利だとか何とか言ってくるかもしれないが、他者危害の原則を考慮できないわけではないだろう。
 
演説にしても、なんだかあまり意味のないことを言っているのが殆どであるような気がしてならない。大風呂敷を広げて、できもしないことを叫んでいたとしても、いざ当選してしまえば、何の責任も負わないのが通例である。
 
いつか都知事であったか、選挙のときの公約を一つひとつリストアップし、それを実行したかどうか検証することを、ワイドショーか何かがやっていた。こうしたことを、制度的に、再選を目指す候補者のためのデータとして提示する義務を負わせてはどうだろう。最高裁判所の裁判官の国民審査が選挙のときに実施されるが、そのとき、その裁判官が携わったおもな裁判とそれについての判断は、簡単ではあるが公示される。ところが議員については、それがない。そのときだけ名前を連呼し、聞こえのいいことを口の上手い形で演説すれば、実際やったことはまるで関係なく、票を集めることができる、という現状に、誰か楔を打ち込んでくださらないだろうか。
 
教会の牧師についても、そうしたことを提案したい。ひとつ説教のテープを渡せば、それで採用、ということが多いようなのだ。一度説教を目の前でさせる、というのもあるが、そもそ牧師のなり手が少なくて引く手あまたの市場であるだけに、事実上その段階で断るということは、まずないのではないか。その説教を聞いて、これは箸にも棒にもかからない、と正当に酷評した人がいたとしても、他の全員は説教には何の関心もないらしく、大歓迎した、ということがあるそうだ。その後その聞くに堪えない説教は延々と続いているらしい。
 
そうだった。選挙カーと選挙の話だった。私は覚えている限り、投票をしなかったことがない。もちろん、今回も投票させて戴く。歴史上多くの人が血を流し人生を懸けて戦って得た権利である。ありがたく使わせてもらう。私の一票で変わるとは思えないが、私の一票を、神は知っている、という信仰はまだ残っている。

いいなと思ったら応援しよう!