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恵みの座がそこにある
ヘブライ4:14-16
神の言葉は生きています。すべてのものは神の前に裸なのです。逃れられません。だが、という感覚で、私たちは今日の聖書箇所に入ります。「偉大な大祭司、神の子イエスがおられる」のです。何を恐れる必要がありましょうか。「告白をしっかり保とう」と説教者は言います。訳者は「信仰の告白」という言葉を実は補っているようです。
イエスを大祭司と見なしたからには、「神の子」であると捉えていても、祈る先、拝する先には、キリスト自身というよりも、神が待つことになるでしょう。キリストは確かに、私たちの前に背中を見せて、神の前に執り成しをします。献げ物はどこにあるのでしょう。大祭司キリスト自身です。毎年である必要はなく、唯一度いけにえとして献げられました。
かつての律法に定められた形式に則って為される儀式ではありません。あの献げ物についての贖いの特別な規定は、キリストが十字架に架けられたことで、完全に成就したのです。キリストという大祭司は、人間の弱さにシンパシーをもちます。否、それは今私たちが気づくところの、エンパシーでしょう。それは高い所から見下ろすものではありません。
キリストは人間となり、人間が味わう最も苦しい痛みを自ら経験したのです。十字架の前からも、試練は度々襲いました。但し、キリストは罪とは無縁でした。罪なしの試練の数々でした。私たちの弱さも辛さも、すべて知られています。エンパシーを以て知られています。そういう憐れみを、私たちは十分受けています。
神から完全な慰めを受けているし、恵みが与えられています。神の善きものを、私たちにとり幸せであるものを、たっぷりと与えられているのです。この献げ物のある礼拝に招かれている私たちは、イエスを間近に見る恵みの座が与えられています。堂々とその座に近づきましょう。心配に及びません。もうそこに助けがあります。いつでも主を頼れます。