王の入城
詩編24:1-10
伝統的に、教会の献堂式のために読まれる詩です。交読文でもよく用いられます。特に後半のほうで、王として主が城壁都市エルサレムに入ってくる荘厳な光景がうたわれています。さあ、今回は特に後半を大切にしながらこの詩を味わいましょう。ここに栄光の門が開かれます。王がそこから入城してくるのです。ダビデがこれをうたっています。
主のものたる全世界という初めの部分からも、この詩が壮大に風景を描いていることが分かります。全地の全存在が主のものと称えられ、そこに住む者もまた主の者です。生物も人間も、そしてこの私もそうなのです。神が自身のものを粗末に扱うはずがない、そうした信頼を私は、主に対して抱くことができるかどうか、それも自問したと思います。
主の山に登る者への祝福がうたわれていますが、義なる称えられ方も垣間見えます。主を尋ね求める者が祝福されますが、なにも一人とは限りません。主を拝する者がたくさん集まってもよいように思います。ダビデもまた、イスラエルの民すべてに対して呼びかけていたことでしょう。そうして集まった人々の中を、主が入城してきます。
仏作って魂入れず、と言いますが、都と神殿を造営してもそこに神が来るというけじめが必要になったのでしょうか。ただ、ダビデは神殿建設を許されませんでした。だからこのイメージにはリアリティがないようにも思えます。むしろ私たちは、人の心の内にも神が入城するかどうか、それを問うてみたいものです。
汚れなき手と清い心をもつ者などとうていいないでしょう。これは清いキリストのなすことだと見ましょう。私たちの魂は汚れきっています。でも、罪を悔い改めることを神の前になすならば、キリストが入城してきてくださることでしょう。そうして、キリストの弟子たるに相応しいものに、変えてくれるものと信頼しましょう。
すべての存在は主のものであり、そこに住むもの、この私もまた神に赦されて招かれています。よって、喜び感謝して、主を迎えましょう。聖所に立つような資格は私にはありませんが、キリストがそれを可能にしました。残酷でしたが、キリストの十字架もまた、輝く栄光だったに違いありません。そしてこの道を備え整えたのは、すべて神でした。
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