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主が担う

イザヤ46:1-4 
 
「担う」とはどういうことでしょうか。背負うという身体的行為から始まる言葉だと思いますが、そこから抽象化して、いろいろな情況を表すことができるようになりました。というより、何かそうしたことを表すために、「担う」という言葉を利用するべきだ、と多くの人が感じ、あるいは共感して使うようになったのでしょう。
 
イスラエルは、主がずっと責任を負ってきたではないか。このことを、イザヤは主の側に立って指摘します。主からそれを受けて、主の代わりに告げるのです。ここに、複雑な事情が現れます。「私に担われている者よ」という音声は、確かに人間イザヤの口から出ています。しかし、その霊は神からきています。イザヤには担っている感覚はありません。
 
「あなた」と呼びかける相手は、イスラエルの民。そして今や、すべての人に対して呼びかけているのであり、この私も対象です。主が担っているのだ、主があなたを背負っているのだ。こう迫られた私は、主と出会ったことになります。今ここでも、主に担われている自身を実感します。私という重荷を、主は背負ってくださったのだと恐縮します。
 
おまえを造ったのは主ではないか。主がおまえのすべての運命を握ろう。責任を取る形で、面倒を見ようではないか。イザヤは、ベルだのネボだの、異教の偶像の神々も担われていると言いますが、獣が担う荷物である程度の代物だと斬って捨てます。正に「お荷物」です。自由のない、命のないものです。命を与えることなどできないものです。
 
だから、主に導かれ生かされている民は、聞け。イスラエルよ、聞け。主に担われてここまで来た者たちよ。これからもずっと、主が責任をもっておまえを助け導くのだ、とのメッセージが届きます。主に背負われて行くがいい。安心して、主の救いの中にどっぷりと身を任せ、喜びの声を挙げるがいい。年老いてもなお、委ね続けるがいい。

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