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節分から始まるあれこれ

古来一年の始まりとされた立春。その前日を私たちはいま唯一の「節分」としている。それは本来、季節を分けるという意味であった。春夏秋冬という四つの季節を刻む日本の風土では、節分は四度ある。立春立夏立秋立冬、それぞれの前日である。立春は、旧暦での一年の始まりであったことから、その前日の節分は、いわば大晦日のようなものであり、特別扱いされたようである。それが、いろいろあって、追儺(ついな)と呼ばれる、鬼を追い出す別の儀式と重なっていったという。
 
私たちはいまでも、年末に大掃除しなければならない、と急かされる。キリスト教会ですら、そういう習慣を当たり前のように実行する。しかし、それは本来、歳神信仰からきている。新たな年に訪れる歳神を、清めた状態で迎えなければならない、とするのだ。
 
ところで、人間が定めた暦というものだが、なかなかどうして、天体や自然の規則をよく調べ、考えている。古代ギリシアの哲学の祖タレスは、日蝕を予言したと伝えられている。5世紀初めにキリスト教徒によって惨殺された、アレキサンドリアのヒュパティアは、天文観測において地動説すら唱えていた、というのは、その生涯を描いた映画『アレクサンドリア』の描き方だったが、地動説そのものは、それ以前からあったとされている。
 
この節分において、幼稚園の子どもたちが、無邪気に「鬼は外、福は内」と豆を蒔く風景も、近年は果たしてあるのかどうか。そもそも「幼稚園」が激減している。午後2時にお迎えにいく親が少なくなったためだ。教育機関としての幼稚園の存在意義が、霞のように消えかかっている。
 
捻くれて、ではないだろうが、「鬼は内」と撒く地域もある。考え方は、立場によって様々だ。「神無月」は、出雲にとっては「神在月」となるのだから。
 
鬼なんて、自分の内に巣くっているものでしょ。そう指摘する人もいる。誰もの心の内に、鬼がいる。それを追い出すのに、豆ごときで済むとは思えない。しかし、それを「心の闇」などという言葉で言い当てたつもりになって安心するのも、どうかしている。
 
精神的に孤立した者がやってしまった犯罪について、先週判決が下った。医療従事者が「死に逃げ」をさせたくない、という思いを説明してくれたのが、印象的だった。医者として、淡々と命を救うしかない、という使命感を示すと共に、そうした感情もあるということを教えてくれた。人間として、当然なのだろう。だが、その奥に渦巻く心は、どんなものだろうか。言葉にできないものが、多々あるだろうと思う。
 
多くの人が思い起こしたそうだが、手塚治虫の名作『ブラック・ジャック』に、「二度死んだ少年」というものがある。ニューヨークのハーレムが舞台。警察に追われた少年が、飛び降りて心肺停止になる。ブラック・ジャックが依頼を受け、少年の命を救う。だが、少年は裁判で死刑を言い渡される。ブラック・ジャックはその裁判の席で訴えていた。「死刑にするため助けたんじゃない!!」
 
しかし、今回の事態はこれと安易に重ねることはできない。『死刑 その哲学的洞察』(萱野稔人・ちくま新書)が指摘しているが、死刑になりたい者が犯す犯罪に対しては、死刑は抑止力にはなっていない、という。「死に逃げ」という言葉は、この指摘とつながるであろう。
 
誰かと心がつながることは、できなかったのだろうか、と悔やまれる。他方、手をつなぎ、心をつなぎ、生きようと励まし合う人々がいる。災害の中で、多くのものを失ったとき、大切なものに目が開かれるということを、震災や水害などの報道や被災者の声などから、私たちは学んできた。私たちが心の中から追い出したい「鬼」というのは、どういう存在であろうか。それを、人間が追い出すことが、できるのだろうか。

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