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主「の」祈り (マタイ6:5-9, ルカ11:1)

◆主の祈り

イエスが直々に「祈り」について教えてくれたことがあります。これを教会では「主の祈り」と呼んでいます。来週から、その祈りの言葉の一つひとつを、ゆっくりと噛みしめて聴きたいと願います。今日は、「主の祈り」全般について、それを受け取るスタンスを確認してみようと考えています。
 
「主の祈り」は、マタイ伝6章とルカ伝11章にあります。イエスが教えた祈りであり、同じもののようにも見えますが、やはりいろいろ違います。教会は、現在でも、礼拝のプログラムの中でこれを祈ることがあります。礼拝の中に「祈り」という項目は必要でしょうが、そこに用いるのに最適だ、と考えるのが普通なのでしょう。もちろん、敢えてそうしない教会もあります。この祈りの文句をただ称えたからといって、どうなのだ、という反省もあろうかと思うのです。
 
教会で、「主の祈り」として祈るときには、マタイ伝にある方を基準とします。但し、何故か文語調のままです。簡潔で、格調がある、と感じる故でしょうか。日常の祈りの言葉とかけ離れていると、益々形式的なものになってしまうかもしれない、と危惧する教会が出てくるかもしれません。
 
プロテスタント教会では、教会で称える「主の祈り」は、マタイ伝から取ったとはいえ、マタイ伝のとは大いに違うところがあります。終わりのほうに、付け加えられた部分があるのです。つまり、福音書にはない言葉が少々加わっているのです。時に「頌栄」と呼ばれることもある、神を称える言葉です。
 
  国と力と栄えとは、限りなくなんじのものなればなり。アーメン。
 
どうしてこうなったのか。いろいろ研究がなされていますから、お調べになるのもよいかもしれません。どうやら、かなり早い段階で、この部分が載せられていたらしいのです。まだ新約聖書が公認されていなかったころ、聖書に匹敵するような、いろいろな文書が信徒たちにより大切にされていました。そこに、この頌栄が書いてあったようなのです。
 
しかし、興味深いことに、カトリックの「主の祈り」には、この部分が入っていません。カトリックが権威あるものとしてきたラテン語訳聖書には、当然のことながら、この部分がありません。以後カトリック教会では、つい数十年前まで、ラテン語で礼拝を執り行っていましたから、頌栄部分は、その「主の祈り」の中にはなかったのです。
 
プロテスタントは、カトリックが教会の伝統を重んじるのに対抗して、「聖書のみ」というスローガンを掲げて独立した歴史があります。それが、カトリックの方が聖書に忠実に「主の祈り」を取り上げ、プロテスタントが、いまとなっては聖書ではない別の文書にある「主の祈り」を掲げているというのは、なんだか皮肉なことのようにも見えます。
 

◆主「の」祈り

ここで、私が知る限り、誰も気にしていないことを、問題としてみることにします。そもそもこの「主の祈り」とは、どういう意味なのでしょうか。もちろん、この言葉は聖書の中にはありません。だから、聖書の中にはない、慣習上の言い回しにこだわるというのは、本来あまり相応しくないのですが、今日は敢えてその禁忌に挑むような形をとります。
 
「主の祈り」とはどういう意味か。主イエスが教えてくださった祈りでしょ、と答えられたら、はい、それまでです。その通りです。でも、私はふと検討してみたいのです。「主の祈り」の「の」は、どういう意味なのか、と。
 
このような「の」の問題は実は、別の場面ですが、最新の「聖書協会共同訳」で非常に大きな変更を受けたことに関係します。そのため、従来の説教や解釈が全部引っくり返されるほどの衝撃を与えたわけで、それ故に、この聖書協会共同訳を教会で導入することを躊躇っているところも多いのではないか、とも邪推しています。尤も、よく読みもしないで、聖書について真面目に考えようとしないために、「新共同訳と殆ど変わりませんから導入しません」と宣言している教会もあります。盛んに論じられていることにも関心がないわけです。それとも、教会が聖書を入れ替える予算がないので、信徒に嘘を言って取り繕っているのでしょうか。
 
それについていまここで議論するつもりはありませんが、当該箇所だけをお伝えしておきます。「イエス・キリストを信じる信仰」という意味で訳されていたものが、「イエス・キリストの真実」とされた点のことを言っています。ここは原文では、属格が使われており、つまり普通に日本語にするならば、一般的に「の」としておくべき句でした。しかしそれを以前は「を信じる」としていたのが、近年学会でも詳しく検討されてきた「の真実」へと思い切って舵を切った、というわけです。ある意味で、属格の本来の使い方に戻ったことにもなると言えるでしょう。
 
こちらも戻ります。「主の祈り」の「の」は、どういう働きをしているのでしょう。つまり、どういう使い方の「の」でありましょうか。当然、これは終助詞などではなく、「格助詞」としての「の」の働きを、検討することになります。国語文法の議論をするような力は私にはありませんから、できるだけ具体的な例示を心がけながら、「の」のもついろいろな意味合いを取り上げてみることにしましょう。あくまで日本語としてですから、これは解釈などとも言えませんが、視野を広くするためにも、試みようと思いました。
 

◆あくまでも可能性として

「主の祈り」が、「主が教えた祈り」というふうに読めるのは、私たちに「先生の授業」という言い方があるためです。これは「先生が教えた授業」と理解される言葉だと言えます。
 
ところで、「主の祈り」という言葉だけを考えますと、「主が祈る」という捉え方も可能です。主が祈っているのを聞いた、という意味で、「主の祈りを聞いた」と記すことができるからです。これは「の」が「が」という主格のはたらきをするものと考えられますが、古文ではむしろその使い方が主流でした。
 
しかしまた、「主を祈る」意味をとるような場面も考えられます。「の」は「荷物の運搬」とか「数学の勉強」とかいうように、「荷物を運搬すること」「数学を勉強すること」を示す「を」という捉え方もあるからです。
 
あるいはまた、「主に祈る」ような意味もないわけではありません。「富士山の登山」というときは、「に」の気持ちが隠れていないでしょうか。これが「親の介護」のようになると、「のために」という気持ちがこめられていると理解されるとき、「主のために祈る」ことを想像することも、あり得るかもしれません。
 
もし「冬の雨」が、「冬において降る雨」というふうに読み取れるならば、「主の祈り」もまた、「主における祈り」というように、主が祈る言葉のような受け止め方もできるのでしょうか。「図書館の本」は、「図書館に属する本」のことですから、この祈りが主に属することを前提していることにもなり得るでしょう。
 
もちろん、聖書の文脈から受け取ることができる意味は、ほぼ決まっています。主イエスが教えた祈りであることは、間違いありません。それでよいのです。先に申し上げたとおり、そもそも「主の祈り」という言葉が聖書にあるわけではないのですから、聖書から聞くという私たちの姿勢のためには、これらの考察は、何の意義もないものである、と言われても仕方がありません。キリスト教の伝統が、単に「主の祈り」と言い表してきたに過ぎないのですから。
 
この「主の祈り」については、膨大な研究がなされており、またここからなされる黙想となると、無数にあると言えるでしょう。ある宣教師は、「主の祈り」を祈るとき、もうあれやこれやと想像の世界が拡大してゆき、1時間経ってしまうことも珍しくない、と言っていました。
 
学術研究だけでも、私の知るところは砂浜の砂一粒に過ぎないようなものです。私が何かを学びご紹介しても、だから何、と言われかねないことは分かっています。それに、ここはメッセージの場面です。言い訳じみていますが、学術発表会ではないのですから、私においてなされた神からの言葉の迫りから、神の言葉の一つの真実をお話しして、共有できればよいと思われます。曖昧でしょう。正確ではないでしょう。しかし、聖書とお一人おひとりが対面するための、ちょっとした場面を演出できれば何よりだと考えています。
 

◆マタイ伝

最初に申し上げたように、マタイ伝とルカ伝と、二つの福音書で、この「主の祈り」が記録されています。祈りの言葉が少し違う、とは申しましたが、ここで、その言葉尻を検討するのではなくて、イエスが「主の祈り」をどのようにそこにもたらしたのか、それぞれの記者の持ち込み方に注目してみようと思います。つまり、どのような場面で、どのようにして「主の祈り」が紹介されたのか、ということです。
 
まずは、マタイ伝6章から。
 
5:「また、祈るときは、偽善者のようであってはならない。彼らは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈ることを好む。よく言っておく。彼らはその報いをすでに受けている。
6:あなたが祈るときは、奥の部屋に入って戸を閉め、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。
7:祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。彼らは言葉数が多ければ、聞き入れられると思っている。
8:彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。
9: だから、こう祈りなさい。
 
これは、いわゆる「山上の説教」の中央部です。ユダヤ文学では、一連の記事の中央部は往々にして最も重要な山頂のような意味をもつものですから、山上の説教の中でも、やはり重要な部分ではないかと推測します。
 
マタイという福音書記者は、基本的に、旧約聖書をよく知るユダヤ人を対象に、イエスの教えを綴っています。資料の中からも、それに見合うものを選択し、編集したものと考えられています。
 
お気づきのように、この箇所の殆どは、先週「祈りの道へ」という導入的なメッセージの中で、お開きした聖書です。そのとき、マタイの描くイエスが、偽善者であることを戒め、隠れたところにおられる神に祈るように、というように、自身の真実なところで神と向き合って明らかにすることをお薦めしました。
 
これを踏まえて、「だから、こう祈りなさい」というようにして、「主の祈り」が紹介されたのです。
 
隠れたところで自身と向き合い、神と向き合って祈るのだ、「だから」「主の祈り」を祈るのだ。この流れは、一人ひとりの心に、グサリと刺さります。キリスト教文化でも、道徳的なところに大きな影響を与え、キリスト教倫理を形成することに貢献したのではないかと思います。「おまえはどうなのだ」と迫る形で、「主の祈り」が教えられた、とまず受け止めておきたいと願います。
 

◆ルカ伝

それでは、ルカ伝はどうだったでしょうか。やはり「主の祈り」がもたらされる直前を、見てみましょう。11章の頭からです。
 
1: イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください」と言った。
2:そこで、イエスは言われた。「祈るときには、こう言いなさい。
 
弟子たちが、祈りを教えてほしい、と願ったのでした。「そこで」イエスが、こう祈れと教えたことになっています。マタイ伝のように、イエスが一方的に教えを垂れるその中には置かれていません。弟子たちとの間のストーリーがあり、弟子たちの質問に応える形で、イエスが「主の祈り」を教えている、という設定になっています。
 
さらに言えば、この弟子たちの質問は、洗礼者ヨハネと同じように、という意味でなされました。当時、洗礼者ヨハネについては、相当な知名度があったと推測されます。福音書のすべてが洗礼者ヨハネについて触れ、さらにその死の場面に言及したり、ヨハネあるいはその弟子とのイエスの関わりが紹介されています。人々も、イエスのことを、洗礼者ヨハネなのか、というような見方をしていますから、素直に読めば、当時はイエスよりも、圧倒的に洗礼者ヨハネの方が有名であったように考えられます。
 
ルカ伝では、「主の祈り」は、弟子たちの質問に対して、先生が教えた、ということになっています。これは教育者の姿勢です。教育の意図のための記事です。教育は、何か大きな目的があってなされます。この場合は、「教会」のためだ、と考えるのが自然です。まさか国家のための教育ではないわけですから。
 
ルカは、この福音書に続いて、使徒言行録を書いた、ということが確実視されています。つまりイエスの生涯を描いた先に、初期の教会を記録することを計画し、実行したのです。ルカにとり、「教会」は、最大関心事の一つでした。「主の祈り」という「祈り」の手本は、教会のために、教会を築き、保つ要請の中で、記事となっていたのではないでしょうか。
 
これは日本語の問題ですが、「教会」には「教」の字を使っています。原語には全くないそのニュアンスを漂わせることになったことで、これは誤解を招くことになった、と指摘する人も数多くいます。でも、依然として教会がいかにも教えを垂れるところ、というようなイメージを与えてしまっている現状は、日本的な問題であると言われています。「教会」と訳した語は、共同体や集会などを意味する方が強く、イエスを信じる人々の集まりを指すべきだ、と言われるのも、訳があるということです。
 
それがさらに、いまは「建物」のことをこそ「教会」と呼ぶ、というふうに一般には思われるようになっていますが、それくらいならば、まだ「教育」の場と見られたくらいのほうが、ましだったのかもしれません。
 
冗談めいたことはこれくらいにしますが、教会はある一面では、確かに「教育」をすることが大切です。いまこの時代に教育をすることも必要でしょう。次の世代のために教育をすることも、大切なことです。旧約聖書でも、子に教えよ、という点は、強調してもしきれないほどに、重要なものとして描かれています。
 

◆教育

教会組織によっても、いろいろな役職の置き方や、その名称があると思われます。私はかつて、「教育執事」という肩書きを教会で与えられたことがありました。また、いわゆる客員であってその教会員ではないときには、「執事」にはなれませんが、「教会学校」の責任を負っていたこともあります。
 
そのため、「教会学校」というものについて、様々に調べたことがありました。他教会の実情についても関心を寄せ、情報を取り寄せました。また、その教会に合った教会学校の形はどういうものだろう、と思案と実践を重ねてきました。その細かなことを話すと、それだけで1時間でも2時間でも話が進みます。ですから具体的なことは割愛します。
 
もう少しぼやけた捉え方になりますが、いま、日本の「教会学校」は、どのようになっているでしょうか。かつて戦後のキリスト教ブームというような頃と比べても仕方がありませんが、四半世紀前頃は、まだ教会には子どもたちの声が聞こえていたような気がします。いま、「壊滅的」と呼ぶしかないような状態である教会が、多いのではないか、と危惧しています。
 
もちろん、その教会教会によって、事情は異なるのです。しかし、概ね、教会学校が、成り立たなくなっているほどの状態ではないのでしょうか。私の経験でもかつて、「中高生科」がひとつなこともありましたが、「小学生上級科」「小学生下級科」「幼児科」「嬰児科」くらいに分かれていたこともあったのです。教案誌がある場合も、それくらい分かれて教案が作られていました。
 
どうして教会学校が成り立っていないのか。「少子化のせいですよ」と嘯く人もいます。そんなことはありません。近くの小学校には、何百人も子どもたちがいます。その教会のすぐ横には高校があり、たくさんの高校生が毎日通っていました。
 
「昔は手配りもしていたけど、いまはできないんですよ」「子どもに声をかけると不審者通報されますからね」などという声も、あるでしょう。でも、昔の伝道の形しかないのであれば、路傍伝道も天幕集会もないなら、いまは教会ではもう伝道というものは、全くなされていないのでしょうか。教会の予算には「伝道費」は消えていますか。そんなことはないでしょう。子どもたちに、本気で福音を伝えようとすれば、きっといくらでも方法はあるはずです。しようとしていないのです。
 
でも、教会にいるのが高齢者ばかりであれば、そもそもそういうエネルギー自体がありません。知識もなければ、方法ももちません。やるかたなし、で教会の死を見守るだけ、というままに、時だけが過ぎていることはないでしょうか。
 
子どももそうですが、若い世代が、教会というところに興味がない。これが世相です。教会が、何かしら魅力的なところには見えないのです。関心が生まれないのです。かつてキリスト教は、お寺さんが、お年寄りだけの行くところになっている、などと冷ややかに見ていることがありました。正直、あったと思います。しかし、いまやあのときお寺さんを見ていた眼差しが、そのままいまキリスト教会に注がれていることを、私たちは知るのです。
 
むしろ、寺であれば、そこに墓がある限り、何らかの形で人が結びつく可能性があります。尤もいまは「霊園」というような形で、宗派を問わない形で、いわば無宗教でも墓を建てることが広まっています。それで、寺の経営も本当に大変であり、閉じる寺も数多いと聞いています。寺の修繕費も賄えず、檀家の厳しい声に怯えている、という僧侶もいます。それでも、まだ墓というつながりが、あるにはあるのです。しかし、キリスト教会には、それが殆どありません。墓地をもつ教会もありますが、強い信仰があってこその結びつきですから、寺のように緩やかでない分、今後どうなるか、不透明だと言えるでしょう。
 
さらに、寺は習俗化するならば、生活の一部となりますが、教会は、改めて「信仰」をもって加わる組織だという意味が強く感じられます。そういういま、「宗教2世」という言葉が走り出し、「霊感商法」をする組織がキリスト教を名乗るなどということがあっては、いっそう悪いイメージがつきまとっています。そもそもヨーロッパでも、教会につながる人が激減しているのです。すっかりマイナー化したキリスト教の教会は、足を一旦踏み入れたら怖いところ、というものが、若い世代の常識になっていることを、教会全体が、どれほど深刻さを覚えているか、その生温さこそが、もう決定的になっていやしないか、と案ずるのです。
 

◆主が祈る

メッセージは、むしろ励まさなければならない、という使命を帯びているものとすると、ここまで悲観的になって、なんで聞いて面白いか、とお叱りを受けるようなことばかり話してきました。もっと希望はないのか。今日いったいこうして聞いて、どんな喜びが与えられるというのか。悲しむために来たのではない。
 
ああ、それでも途中で退出されなかったあなたに、心から感謝します。ここから、遅すぎたかもしれませんが、この「主の祈り」の恵みについて触れて閉じることにしましょう。そして来週から8回にわたりこの「主の祈り」の言葉を一つひとつ受けることによって、どんどんと、恵みの坂を登らせて戴きましょう。
 
先週、祈りは「願い」に過ぎないのか、という問いかけから、お話を始めました。祈り願っても、現実にはもうだめだ、という悲しい場面を想定しました。そこで、弟子たちも尋ねたのです。「祈り」とは何ですか、というように、根本的な質問を投げかけたのです。それでも、弟子たちは、それを哲学的に問うたのではありませんでした。極めて実際的に、具体的に、どう祈ればよいのですか、知りたい、と求めたのです。
 
「主の祈り」、それは、主が教えてくれた祈りでした。「の」の様々な意味を比較しながらも、私たちは、やはり「主が教えてくれた祈り」というふうにしか、これは捉えられない、という気持ちになっていました。
 
でも、私は夢を見ます。預言者が幻を見たことが許されていたのなら、いま私が私なりに、注がれた霊によって見せられた幻を、少しばかり語ってもよいのではないか、そう少し甘えてみたいのです。
 
その幻は、主が祈っている姿でした。主イエスが、祈っています。聖書には度々、そういうシーンがあります。残念ながら、聖書は情景を具体的に描写することはしません。だからまた、私たちは想像する自由があります。主イエスが、祈っています。そして、ちょっと私の方を振り返り、言葉を投げかけます。
 
「祈りはね、他人に見せたり聞かせたりするものじゃ、ないんだよ」
 
「くどくど祈る必要はないからね。神さまは、ちゃんとひとの真心を、分かってくださるんだから」
 
「そうそう、うまい祈りの言葉が出てこないんだろう? 大丈夫。こうして私があなたの代わりに祈っているじゃないか。え? 代わりに祈ってもらうのは忍びないって? いいのさ。私はすでに、あなたがあなたの罪のために死罪とされるところを、あなたの代わりに十字架について、始末を付けているじゃないか。あなたの罪の報いを、あなたが受けなくて済むように、あなたの代わりに死んだじゃないか。あなたの代わりにね」
 
主が祈っている。私の代わりに祈っている。だったら、私はもう、とやかく騒ぎ立てる必要はありません。私は沈黙していればよいのです。そして、イエスの祈りに任せましょう。ひたすら、神の声を聴くようにしましょう。そのような、神との交わりこそが、私には必要だったのです。
 
「私たちにも祈りを教えてください」と弟子たちがイエスに求めましたが、それは「私たちはどう祈ればよいか」を知りたかったということでしょう。でも大切なことは、私はどうすればよいのか、どう祈ればよいのか、そういう視点ではないように思えます。主イエスの祈りを聴くこと、イエスの祈りに私の祈りの周波数を合わせることにさえ気を配れば、まずはそれで十分なのではないかと思うのです。
 
イエスが祈っている。その姿を思い描きつつ、「主の祈り」について、二か月にわたり、静かに聴いていきたいと願っています。

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