論理と聖書
女子高生が、友だちに何気なく尋ねられた。「恋人、いる?」
彼女はすかさず答える。「いらない。」
ラジオへの投稿(かつては葉書だったが、いまはメールや投稿フォームだろう)で、私にちょっとウケた。その「ずらし」が面白い。彼女の醒めた恋人観もさることながら、その日本語の受け応えの妙についてである。
友だちは、「恋人が存在するのか?」と尋ねたのだが、ポリシーをもつ彼女は、「必要ない」と答えたのだ。存在も必要も、どちらも、「いる?」という言葉で質問することができる。漢字で書けば、「居る」と「要る」であろうか。漢字は、表意文字である。これは世界的に見て非常に珍しい形態である。また、視覚的にその意味を連想させるはたらきを有っているため、一つひとつの音を確認しなくても、書いてある意味内容を凡そ把握することができる。速読には向いているかもしれない。
他方、論理関係を掴むためには、それでは速すぎるという場合もあるだろう。上っ面を滑って、なんとなく分かった気になる危険性がある、ということである。子どもたちの論理性ができていない、ということを、新井紀子さんが指摘して話題になったのは、もう5年以上前のことである。私にも参考になった。また、塾側も、これに刺激を受けて教材の一部を変更した。
問題は、子どもたちだけではなかった。情報化社会の中で、大人も毒されていることは間違いない。しかし、年配の人の中には、それなりにじっくりとした読解の教育を受けた世代もあるとすれば、それは単に忘れかけている、というレベルで捉えられることになるだろう。だが最初から上っ面読解の中で育てられた子どもたちは、上滑りの読み方が根っからのものとなるとすれば、また様相が異なる。
あまり悲観的になる必要はない、という人もいる。これまでも、なんとかなってきたのだ。あまり性急に、センセーショナルな対応をするのは勇み足であると考えるのである。
最近読んだ、話題の『論理的思考とは何か』から学んだことによると、文化により「論理」と呼ぶものが異なるのだという。日本人には日本文化の「論理」というものがあることは否めない。平安貴族の「論理」は、現代社会で想定される「論理」とは異なるものであろう。それでも、私たち現代日本人の中にも、それは息づいていることを否定することはできないだろう。
日本の古典を学ぶことにより、その精神的DNAが掘り起こされることが、あるかもしれない。しかしまた、世界の古典を知ることによって、互いに理解し合える可能性を増やすこともできるであろう。キリスト教会で「聖書」を扱うとなると、その「聖書」の「論理」というものを受け容れることとなる。ユダヤ文化などとも呼ぶが、それはまた独特の「論理」を含みもつ。しかも、それはギリシアやヨーロッパの文化と混交し、元の色が分からないほどの色合いを示すようになっている、とも言える。
このようなときに、聖書が言っているのはこの意味なのだ、と唯一の解釈を持ち出すのは、ナンセンスであるようにも思える。確かに、原意を無闇に変更して、自分の都合の好いままに理解することを、よしとするわけにはゆかないだろう。しかし、それを神の言葉として受け止め、命を与えるものだと信じるならば、いまここで、その言葉ははたらくことだろう。ひとを殺すためにではなく、ひとを生かすためにはたらくことだろう。
それは、自分を神として読むことを阻むものであるはずだ。結局、人間の「罪」というものは、そこのところにベースがある、と捉えておくことが賢明であるのではないか。聖書の言葉が正しい、と訴えることは、それはそれで否定されるべきことではないが、それを「私が思うように読まねばならない」というように、隠れた「私」が操るような姿勢が支配しているのだとすると、聖書の神から最も遠いところにいることになるのではないか。
あの女子高生のように、「いる?」という問いかけに対して、「いらない」と答えたのは、相手の思惑を知った上でのことだったはずだ。ただ自分の考えが正しい、とだけ言おうとしたのではない。それを聞く側も、その点を了承している。だから、面白みがある。
聖書は不思議な書である。特別な書である。読む自分の根柢を問うてくる。一旦、それが突き崩されることなしには、聖書は命を与えない。聖書がもたらすものは、本当の自分に気づく、というような性質のものではない。それを勘違いするところから始まった「信仰」が聖書を語るとすると、根柢から誤った道となる虞がある。
そこにあるのは、「文字」による「論理」ではないだろう。ひとを生かすのは「霊」による「論理」であるに違いない。