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映画「きみの色」

8月末に封切りで、この近くでは遂に10月末で上映終了となった、映画「きみの色」。その最終上映で、機会を得てやっと観ることができた。
 
ずっと観たかった。山田尚子監督の作品は好きだし、評判も良かった。こういうとき、私は細かな下調べはしないことにしている。殆ど白紙の状態で、映画館に臨むのがいいと思っている。今回も、評判の良さ程度が、予備知識のすべてだった。
 
結果、言葉にできない感動を与えられた。下調べがないことが、却って良かったとすら思っている。というのは、ここまでキリスト教の福音の映画であったことを、全く期待しなかったからである。否、世間の評判の中でも、このキリスト教については、それほどは言われていなかったものと思われるのだ。
 
確かに、舞台はミッションスクールと教会である。だが、世間の評には、「信仰」という観点は殆どないようだ。10月11日付けで、佐分利敏晴という方が、「この作品では、あからさまにキリスト教との関連が描かれていきます。そういったことについて、宗教者の誰かが言及・解説してくれるのではと期待してネットで検索しても、全く引っかかりません」とnoteに記しているのを見つけた。
 
とはいえ、この筆者は聖書や信仰について知っているわけではなく、知識をひたすらChatGPTで調べて書いているので、表面的なことを見ているに過ぎない、とも思われる。
 
上映はほぼ終了したのであろうが、だからと言って、ストーリーをここで明かすことは、私にはできない。ただ、信仰という観点から言えることを、少々明かしてみたい。
 
ただ設定くらいは、ご存じない人にも理解して戴く必要がある。ミッションスクールの寮に暮らすトツ子を中心に物語は回る。憧れる女生徒きみちゃんを追う中で、偶然出くわしたルイという別の高校生と三人で、バンドを始めることになる。若いシスター日吉子が陰でトツ子をよく導く姿が印象的だ。
 
映画では名言されていないが、小説版によると、トツ子は、洗礼を受けている。そのため、このミッションスクールに進学した。それで、聖堂で日々祈りを献げている。その祈りの姿をシスター日吉子はよく見ており、アドバイスも与える。
 
映画のテーマは、ラインホルト・ニーバーの有名な祈りである。最初から最後まで、事ある毎に繰り返された。引用させて戴く。
 
 神よ
 変えることのできるものについて、
 それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。
 変えることのできないものについては、
 それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ。
 そして、
 変えることのできるものと、変えることのできないものとを、
 識別する知恵を与えたまえ。(大木英夫 訳)
 
クレジットでも、この大木英夫訳だと明かされていたが、ちょうどいまも大木英夫氏の『ローマ人への手紙 現代へのメッセージ』をちびちび読んでいるところだったので、思わず「おお」と唸ってしまった。
 
トツ子は、特定の人の中に「色」を感じる不思議な能力をもっている。一種の「共通感覚」であろうが、これがタイトルの「色」の背景にある。バンドを組むことになった二人にはきれいな色が見えたのだ。最後には自分にも色があることに気づく。三人の色が集まると何色になるか、そのことにすぐに私は気づいたし、また三人である、というところにも意味があることも感じていた。この三人は、それぞれに悩みを抱えているのだが、映画はそれぞれをとてもよく描いていたと思う。
 
ところで、彼らはオリジナル曲を文化祭で演奏することを目標にするのだが、トツ子はシスターに、そういう曲は「聖歌」と言えるでしようか、と尋ねる。シスターは、「善きもの。美しきもの。真実なるものを歌う音楽ならば……それは聖歌と言えるでしょう」と返す。
 
そこで私の受け止め方に入ろう。そもそも礼拝でギターやドラムスなどもってのほか、という考え方から離れられない老人たちが、教会の一部にいるともいう。現代風の賛美歌が礼拝で取り上げられると、歌わないばかりか起立さえしないという人もいる。そこまでいかなくても、歌詞が旧態依然の賛美歌のようでなければ、(確かに礼拝の中では少し場違いになるのは確かだが、)教会ではけしからん、という見方も根深い。だがこのシスター日吉子は、トツ子の心を知っているから、それも「聖歌」と言えるだろう、とアドバイスしている。
 
三人の悩みのうちで、最も深刻と思われるのは、きみちゃんであろう。いろいろあって、自己肯定感がもてなかった。彼女の書いた歌詞は、暗い。だが、きっとそれもまた「聖歌」なのだ。
 
この映画を、多くの若い人たちが観ている。そこに、このような言葉は、響くはずである。教会というところが、ずっと近いものに感じられるのではないだろうか。いくら「聖書はこう言っています」と大人が聖句を掲げたSNSを発信しても、教会外の若者たちからすれば、「自分とは関係ないもの」にしか見えない。しかし映画は、「自分にも関係あるもの」だというメッセージを、ちゃんと届けていると私は感じた。
 
映画の中には賛美歌も一部流れるし、授業で詩編121編を声を合わせて読む場面もある。しかし、きみちゃんが立ち直るきっかけとして、シスターが与えたイザヤ書43:4は強烈だった。これにより、きみちゃんの見る世界が変わった(映画では新改訳だったかもしれないが、カトリックのシスターが使うのは不自然だという声もあった)。感動的な聖書の言葉の使われ方だった。
 
聖書の言葉が、人を変える。聖書の言葉が、人を生かす。それを実にはっきりと描いていた作品だったのだ。「善きもの。美しきもの。真実なるもの」への賛意と、人の価値を認める聖書の言葉。いかにも聖書を解説しているかのような冷たい教義を振り撒いても届かない何かが、この暖かな色に包まれた映画の中で響く言葉によって、心が開かれ、伝わってゆくような気がしてならないのである。
 
どうすれば信仰が伝わるだろうか。福音が福音として届けられるだろうか。キリスト者はそれを考えて祈り求めてきたが、最近はもしかするともう諦めの境地に来ているかのようですらある。教会は老人の溜まり場となり、子どもばかりか、若い世代もいなくなった。昔、お寺は老人ばかりだ、と教会が評していたこともあったが、教会も全く同じ道を辿っていることには想像がいかなかったのだろうか。
 
映画では、罪について問う場面もあった。カトリックが舞台だから「告解」というものも登場するのだが、実はこの罪の告白と赦しということが、「告解」という宗教行為とは別の場所で、見事になされていた。映画を注視した人は、必ずそれを感じ取ることだろう。シスターの「罪であって罪ではない」という言葉は、キリスト者として生唾を呑み込むほどの力があった。
 
こうして見てくると、この映画はなんと福音的な物語だったのだろうと驚くばかりである。私は気づかされた。これが「福音を伝える」ということなのだな、と。挫折や悩み、困難をそれぞれ抱えながらも、三人が出会うことによって、前向きで明るく歩み始める登場人物たちを、ここまでつくってくれた監督やスタッフに、改めて御礼を言いたいと思う。長崎の教会や神戸女学院が映画に協力しているし、キリスト教についてもカトリックの教授が監修している。しっかりした基盤を準備しているからこそ、善いものが生まれたのであろう。正に、この映画が「聖歌」を奏でてくれたのである。
 
キリスト者が、この映画を観ないのは、もったいない。観たら、教会についてよく考えたらよいと思う。キリストに生きる者が、世に伝えるべきものをもしも間違っているとしたら、その信仰そのものが、とんでもない方を向いているかもしれないのだ、と。映画の舞台は、とことん教会堂だったのだ。キリスト教会は、この映画が導くほどの力ある言葉を、どれほど届けていただろうか。「何度でも歩き直すことができるのです」という一言で、人を助けていただろうか。実に妬ましい映画であった。

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