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求めなさい (ルカ11:1-13)

◆ハイデルベルク信仰問答

ハイデルベルク信仰問答は、カルヴァン派の信仰問答です。いわゆる宗教改革のしばらく後、1563年に、ドイツのハイデルベルクという町で出版された、信仰問答です。問答とは限りませんが、多くは問答形式で、キリスト教の教理、つまり何をどう信じるのか、ということを学ぶためにつくられた入門教育のための書です。「カテキズム」という言葉の方が、ピンとくる人が多いかもしれません。
 
ハイデルベルク信仰問答に沿って、この1年半ほど、メッセージをお届けしてきました。お気づきの方もいらしたことかと思います。とはいえ、沿っていたのはそのプログラム的なものであって、決して内容を私が深く学んで、ということではありません。従って、ハイデルベルク信仰問答にはここでお伝えしてきたような内容が書いてある、と誤解なさらないようにお願いしたいと思います。内容は、すべて私個人に与えられた聖書の言葉と理解でしかありません。
 
そのプログラムも、今回で終わりとなります。つまり、「主の祈り」を学ぶことで、ハイデルベルク信仰問答は幕を閉じるのです。最後には、「国と力と栄えとは/限りなく汝のものなればなり/アーメン」の項目があるのですが、このメッセージにおいては、聖書の中の言葉以外のところを基準にしてお伝えすることを避けたいと思いますので、実質は前回の「我らを試みに遭わせず/悪より救いいだしたまえ」で終わるつもりにしておりました。
 
「国と力と……」は、聖書と同じくらい古い「ディダケー」と呼ばれる文書に記されていることは、お伝えしました。これを含む教会伝統の「主の祈り」は、いまもなお教会で祈られていることもお話しできたと思います。そして、それはマタイ伝のほうを基準につくられたものだ、ということもお知らせしました。
 
ルカ伝の「主の祈り」は、より短く、簡潔です。それもこの一連のメッセージでは、並行して扱ってきました。ただ、やはりマタイ伝が標準だった、ということは確かです。そこで、ルカ伝における「主の祈り」を取り巻く文脈から、マタイ伝とは違う、もうひとつの「主の祈り」の受け止め方を聞きたい、というように考えました。
 
しばらくお付き合い願いたいと思います。
 

◆真夜中の訪問者

マタイ伝では、イエスの山上の説教の中で、祈るのは人前でするべきことではなく、隠れたところで神と交わるのだ、というようなことを説く文脈の中で、「こう祈りなさい」とイエスがもちかけたのでした。それに対して、ルカ伝で「主の祈り」が登場するとき、弟子たちが「祈りを教えてください」と願ったことから、イエスが説明した、ということになっていました。
 
イエスはそれに応じます。「祈る時には、こう言いなさい」と前置きして、すぐにイエスは「主の祈り」を口にします。そして「主の祈り」が終わると、直ちに別の話をします。別の話というのはある意味では嘘です。この「主の祈り」を教えるにあたり、必要なことだったはずですから。「主の祈り」の補足であり、一番近いところでなされた解説です。それは、こういうものでした。
 
5:また、弟子たちに言われた。「あなたがたのうちの誰かに友達がいて、真夜中にその人のところに行き、次のように言ったとしよう。『友よ、パンを三つ貸してください。
6:友達が旅をして私のところに着いたのだが、何も出すものがないのです。』
7:すると、その人は家の中から答えるに違いない。『面倒をかけないでくれ。もう戸は閉めたし、子どもたちも一緒に寝ている。起きて何かあげることなどできない。』
8:しかし、言っておく。友達だからということで起きて与えてはくれないが、執拗に頼めば、起きて来て必要なものを与えてくれるだろう。
 
祈り方や、祈る意味などはどこにもありません。とても不自然です。少しややこしいのですが、「友達」というのが2人、別にいます。「あなた」はいま困っている。時は真夜中。あなたは友達Aの訪問を受けている。これをもてなすのは、当地では義務です。そういう文化的背景があります。しかし、パンがない。いま困っている。そこであなたは、近所の人を頼って訪ねる。これも「友達」と称してあるが、混乱しかねないので、こちらを今後「頼れる人」と呼ぶことにします。
 
真夜中である。パンを三つ貸してください、と頼む。しかし頼られた人も迷惑である。面倒だ。夜中にがたがたしてしまう構造になっているらしく、閉めた戸を開けるのは、家中に響いて家族にとっても困るらしい。
 

◆原文にない訳語

8:しかし、言っておく。友達だからということで起きて与えてはくれないが、執拗に頼めば、起きて来て必要なものを与えてくれるだろう。
 
そうか。裁判官に裁判を頼む女の譬えもあった、と思い出す人もいるでしょう。同じルカ伝の18章です。「絶えず祈るべきであり、落胆してはならないことを教えるために」(18:1)話した話です。女はしつこく裁判官に迫ります。面倒でうるさいから、仕方なしに裁判をしてやろう、とします。「神など畏れない」「不正な裁判官の言いぐさ」だとイエスは言うものの、祈り続けよ、信仰を続けよ、と教えるのです。
 
とても似ている印象を与えます。「執拗に頼めば」パンをくれるだろう、と訳されているからです。しかし、ここの訳には少々演出があることを、及川信牧師が説教の中で指摘しています。その『主の祈り 説教と黙想』(一麦出版社)から、私は学びました。そこから学んだことを、ここから少しお話しします。とはいえ、それは及川牧師の見解というよりも、私の受け取り方なので、不備や間違いがあったら、すべて私の責任ということを、ご了解ください。
 
ギリシア語の新約聖書の逐語訳として有名な『新契約聖書』、いわゆる「永井訳」といわれるものも、次のようにこの11章8節を訳しています。それを、聖書協会共同訳と並べて比較してみましょう。
 
しかし、言っておく。友達だからということで起きて与えてはくれないが、執拗に頼めば、起きて来て必要なものを与えてくれるだろう。(聖書協会共同訳)
 
われ汝等に云はん、彼はその友なるのゆゑに、起きて與へんとにあらざれども、その切なる求めのゆゑに起きて、その要する程を彼は與ふるならん。(永井訳)
 
まず、接続詞の「しかし」がありません。ギリシア語には確かにありません。「しかし」があることで、私たちの理解の方向性が逆転します。これにより、私たちの解釈が、「迷惑で仕方がないのだが、パンを与えるだろう」というように、女に対する裁判官と同じ態度であるように決められてしまうような気がします。
 

◆ルカの文脈の中で

さらに、及川牧師は「執拗に頼めば」のところを大きく取り上げます。原語でそこは一語で表されています。「粘り強さ」あるいは「しつこさ」という言葉です。永井訳は「切なる求め」とありますから、これも少し脚色がないわけではないのですが、「頼む」という語は使っていません。原語には「執拗」の意味はありますが、「頼む」意味は直接出てきていないのです。
 
ところが、このギリシア語は、さらに問題を含みます。新約聖書の中で、ただここにしか出てこない語なのです。他にも用例が見当たらないといいますから、正直なところ、訳語の解釈は帰納的には決定できません。その言語はローマ字表記すると「anaideia」です。最初の「a(n)」は英語で言う「no(t)」ですから、否定を消した形では、「aidos」という形で、新約聖書には、これも一度ではありますが、意味が分かりやすい場面で登場しています。
 
同じように、女は折り目正しく、控えめに慎み深く身を飾りなさい。(テモテ一2:9)
 
ここの「慎み」の語です。だから、これの否定は、「慎みのなさ」を意味する、と理解するのが素直な読み方だと思います。及川牧師はこれを、「恥知らず」という意味だとして議論を展開していました。
 
8:しかし、言っておく。友達だからということで起きて与えてはくれないが、執拗に頼めば、起きて来て必要なものを与えてくれるだろう。
 
ここについて、及川牧師は、誰が恥知らずかを転じた解釈がある、とと紹介します。「あなたがたの友人の中には、「面倒をかけないでくれ」と言ってあなたの求めを断るような恥知らずなことをする人がいるだろうが。いや、いるはずがない」という意味ではないか、と。
 
この「友人」は、先にいう「頼れる人」のことです。「頼れる人」は、断るような恥知らずなことをしない、というのです。「不正な裁判官」だとは考えていないのです。「断るはずがないではないか」が言いたいことだ、とするのです。こう考えると、この先のルカ伝のイエスの話が、とても読みやすくなるのは確かです。
 
9:そこで、私は言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。叩きなさい。そうすれば、開かれる。
10:誰でも求める者は受け、探す者は見つけ、叩く者には開かれる。
11:あなたがたの中に、魚を欲しがる子どもに、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。
12:また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。
13:このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子どもには良い物を与えることを知っている。まして天の父は、求める者に聖霊を与えてくださる。」
 

◆頼れる人

その近所の人、パンを求めて訪ねた先の「頼れる人」は、あなたを裏切ることはない。だから、求めなさい。魚を欲しがる子に蛇を与える父親はいないし、卵を求める子に蠍をもたらす父親はいない。それと同じように、あなたはその「頼れる人」を頼りなさい。信頼しなさい。
 
この譬えにおいて、「頼れる人」は、一貫して神を表していることが分かります。そう理解して、読み進むことができます。私も、その方向で読みたいと思います。執拗に頼んだから仕方なしに恵んでくれる、というような神ではないのです。神には、うんと求めればよいのです。
 
9:そこで、私は言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。叩きなさい。そうすれば、開かれる。
 
マタイ伝にも、この言葉はありました。それは、「主の祈り」を教えた少し先のほうでした。自分の内面に目を向け、正しい信仰のあり方を考えさせた中で、そう言いました。マタイはその「主の祈り」を、人前で恰好つけるな、それは偽善者だから、隠れた神に祈るためのものとして提示していました。そして、その祈りにあるように、赦すことが必要だ、と教えました。祈って自分が得をするようなことを考えるのではなく、天に宝を積むのだ。神はその全てをご存じなのだ。そのような方向で、祈ることを教えていました。
 
それはそれでよいのですが、今日はルカ伝に目を落としています。少し脈絡は違います。ルカは「主の祈り」に直結した形で、「求めなさい」を出しています。ルカの答えははっきりしています。「求めなさい。そうすれば、与えられる」と言ったその先に、すぐに、与えられるものとは何か、を明示しています。
 
13:このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子どもには良い物を与えることを知っている。まして天の父は、求める者に聖霊を与えてくださる。
 

◆聖霊

求めれば、聖霊を与える。これがルカの答えです。「聖霊」とは何でしょうか。もちろん神と呼んでも差し支えないというのが、キリスト教の教義です。イエスの昇天の後、地上に神が影響を与えるときには、この聖霊という姿で一人ひとりに及ぶことになります。
 
この筆者ルカは、ルカ伝という福音書の続編として使徒言行録を書いている、ということは研究者が一様に認めるところです。使徒言行録は、聖霊降臨の事件から始まりました。そして、その後弟子たちがイエスの教えを広め、信じる人を各地に起こしてゆく様子を描きました。昔使徒言行録を「使徒行伝」と訳していましたが、むしろ内容は使徒が活躍するのではなく、「聖霊行伝」である、ともよく言われました。
 
ルカは聖霊を強調しています。ドラマチックに聖霊の働きを描いたのみならず、実際ルカ伝に「聖霊」という語が数多く登場しています。他の三つの福音書に登場する「聖霊」の語を全部併せても、ルカ伝に登場する数には及ばないのです。
 
ルカにとり非常に重要なこの「聖霊」を「求めれば与えられる」というのですから、ルカにとり「主の祈り」の位置づけは、かなり大きなものだと言わなければなりません。ルカの思いを受け取りながら、ルカのバージョンで「主の祈り」をここで味わっておきましょう。
 
父よ
御名が聖とされますように。
御国が来ますように。
私たちに日ごとの糧を毎日お与えください。
私たちの罪をお赦しください。
私たちも自分に負い目のある人を
皆赦しますから。
私たちを試みに遭わせないでください。(ルカ2-4)
 
この祈りは、神を称え、神の国が来ることをまず祈った後、日ごとの糧、罪の赦し、悪魔からの護り、そうしたものを求める祈りでした。そしてその求めは、結局のところ、聖霊を求めるというものでした。「父よ」と親しく呼びかけ、神とのつながりをもっている者は、イエスの名を通してではありますが、神に何でも求めてよかったのです。
 
聖霊を求める者に、違う変なものを与えるような神であるはずがないのです。理不尽な時にパンを求めても、それを拒むような恥知らずな方ではないのです。神は、イエスが教えたように祈る者に対して、必ず聖霊を与えてくださいます。
 
聖霊とは、神の霊です。神が霊という形で、私のところに来てくださるのです。イエスという人の形で、二千年前に神は人の世界に来てくださいました。しかしイエスが十字架と復活という、救いの決定的な出来事を果たした後には、神は人という形ではなく、聖霊という形で人に力を及ぼしてきました。その聖霊という神が、祈る者にも、来てくださるのです。祈る者の内に、聖霊が宿ってくださるのです。神が直に、ここへ来てくださるのです。
 

◆アーメン

ハイデルベルク信仰問答に従って、私たちはこの1年半を過ごしてきたと申しました。最後に「主の祈り」の項目が並び、そこには、本能マタイの福音書にはない「国と力と栄えとは/限りなく汝のものなればなり/アーメン」までが記されていました。それはいま「聖書」という形でまとめられている文書ではない文書に、記されていた文言でした。
 
私は、ここでは、聖書でないものを基準におかないと決めているので、「国と力と栄えとは/限りなく汝のものなればなり/アーメン」をメインにして語ることは致しませんでした。ただ、ここでハイデルベルク信仰問答の最後に並んだ「アーメン」の項は、最後に少し触れてみたいと思います。聖書の中にも、「アーメン」という言葉はたくさん出てくるのですから、触れてもよいかと思います。
 
福音書でも、他の箇所にはこの「アーメン」の語がたくさん登場します。但し、訳語としては「アーメン」と書かれているとは限りません。むしろ、イエスの言葉として「よく言っておく」のような形で訳してあります。つまり、「アーメン」とは訳されていません。このようにして登場する「アーメン」の形は300近くもあるようです。
 
ギリシア語では「アメーン」に近い発音なのでしょうか。ヘブライ語では「アーメーン」に近いでしょうか。英語では「エイメーン」のように発音しますが、これは英語ではアルファベット読みで「a」を「エイ」と呼ぶことが多いためです。これは英語特有の読み方ですから、わざわざ真似をする必要がありません。同様に、「ジーザス」というのも、極端な英語の訛りですから、英語こそ原語だ、というような奇妙な思い込みは、どうかなさいませんように。
 
教会の礼拝では、「公祷」と呼ばれる祈りのプログラムがあります。あるいは、何か会議のようなことをするにも、初めと終わりには、誰かが祈るのが普通です。祈りの終わりには、特有のサインがあります。教会により、また個人により異なりますが、「イエス・キリストの御名によってお祈りします」などと言います。聖書に、イエスの御名によって祈れ、というような記述があるからです。そしてこの言葉を祈り手が言えば、その直後に一瞬の「間」を置いて、同席の皆が「アーメン」と声を合わせます。
 
「アーメン」とは、そもそも「その通りです」というような意味で、要するに「同意します」「私もそのように祈ります」という意思表示のようなものとなります。時折実際的な問題として、この最後にだけ「アーメン」と言うことしか許されないのか、ということが挙がることがあります。つまり、祈っている最中に、その祈りの言葉に、「本当にそうだ」と思ったときに、「アーメン」という声を、合いの手のように入れてはいけないか、ということです。
 
祈り手の祈りを妨げる、という見方もあれば、祈り手への同意が聞こえたほうが安心できる、という考え方もあります。喩えは卑近ですが、コンサート会場で、歌に対して掛け声があったほうがよいのかどうか、にも近いような感覚かもしれません。信仰から来る者ならば、思わず「アーメン」と漏れることがあると思います。無闇に禁じるのもどうかと思いますが、やたらうるさいようなのも場に合わないかもしれません。
 
でも、熱い信仰がそこに関わるとすれば、正にそれが「聖霊」の業であるのかもしれません。こうした小さなことからも、教会の命が輝くことがあるかもしれません。人間の知恵や趣味で束縛するのではなく、聖霊の自由な流れにより、教会が造られてゆくのであれば、と願います。
 
「主の祈り」は、福音書の中ではぷつりと終わりましたが、こうして「教会」という場では、「アーメン」で締め括る祈り方をすることになりました。それは相応しかったように思えます。聖霊を求め、聖霊が働く一人ひとりがそこにいる、そういう集まりが「教会」であるのだとしたら、私たちは、聖霊がここに働いて在すことを確信して、信仰を以て「アーメン」と応えたいと思います。聖書の言葉に「アーメン」と応えるために、私たちはいまここに救われているのです。神の言葉はいまここにも、あなたにも、働いていると信じますか。「アーメン」

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