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届かない言葉と心

シャーペンについている消しゴムを、使わないのがわたしのポリシーだった。あるとき、シャーペンを友だちに貸したら、消しゴムがぐちゃぐちゃに使われた状態で返されてきた。とてつもなく悲しい。
 
こんな声が、ラジオから聞こえてきた。分かるような気がする。自分にとり大切にしているものやことが、他人からすれば何でもないものとして扱われてしまうことの、憤りややるせなさ。価値観が違うと言えばそれまでだが、ひとの気持ちはどうだろうか、という想像力にも関係していると言えるだろう。
 
「思いやり」という日本語がある。これは単純に英語にはできないそうだ。幾通りかの言葉が、場面により使い分けられるということはあっても、確かに、イコールで結びつけられるような外国語を探すのは難しいだろう。
 
訳語としては使えないかもしれないが、「sympathy」を覚えることは、ひとつの方向性であったことだろう。それを、「empathy」はまた違うのだ、と世に知らしめたのが、ブレイディみかこさんの『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』であった。ぐっとくるエッセイである。いまは文庫にもなっているので、手に取りやすくなった。
 
みかこさんの息子さんの言葉「誰かの靴を履いてみること」、そこに大きな光を見出し、世に知らせてくれた功績は大きい。私たちに、肌で感じられるような、具体的な行いによって、「empathy」とは何か、を考えさせてくれた。
 
だがそれは、実践するのは難しいことだ。それどころか、私たちは他人の傷口に塩を塗るようなことを、無邪気にやってしまいがちである。それを自分では気づいていないから、いっそう具合が悪い。
 
かと思えば、いくら塩を塗っても、蛙の面に水という人もいる。少しは気づいてほしいのに、全く気づかないし、気づこうともしない。たんなる個人的な関係というのではなく、公的な意味があって、自身の難点に気づくべきだという人や集団があるものだが、いくら何を伝えても、一向に感じない、ということもあるわけだ。
 
もっと私たちは、他山の石を経験しよう。他人の非難にエネルギーを費やすのは疲れる。そして、それが届かないならば、いっそう空しい。価値観は、ひとそれぞれ違うのだ。想像力をもて、と迫るのも、人によっては無理な話なのだ。但し、そうした自己認識ができない人の言葉には、耳を傾けない、という対処は、もはや対処の仕様のない悪だ、ということにしておこう。
 
となると、私の言葉が届かないという場合も、私が正にそれに該当している、ということからなのだろうか。思いやりの欠片もなく、ひとの心が分からない。いくらかの自覚があるにしても、それが実のところ解決できないほどに染みついたものとなってしまっている点を否むことはできないだろう。そう理解しておいた方がよさそうだ。こうして、何らかの指摘も、堂々巡りをすることになる。事態はなんら改善されないままに。

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