夜の祈り
この教会には、もう一人の説教者がある。この説教者は、詩編を、すべてではないが、初めの方から開いて語るようにしている。今回は詩編4編。9節を数えるのみではあるが、コンパクトに、詩人の祈りがまとめられている。「ダビデの詩」であるという。果たしてダビデ本人が本当に書いたのかどうかは知る由もないが、ダビデの経験が描かれているのは確かであるう。つまり、「ダビデについての詩」であるならば、何の問題もないはずだ。
ダビデはイスラエルで愛される王であり、イエスの現れる千年ほど前に、イスラエル王国の土台をつくったとされている。だが、それはいかにも伝説に包まれた輝かしい王というよりは、私から見ても、極めて人間臭く、弱さをたくさんもつ王であった。私も度々指摘しているのだが、この羊飼いの八男坊は、イスラエルの初代王のサウルの側近となったが、サウルの精神的な問題もあって、幾度も命を狙われた。そのサウルが主の預言者サムエルに見放された後、イスラエルの王へと導かれるが、その道もすったもんだがあった。
天才的な軍才と、人に慕われる人格があったのか、サウル亡き後、イスラエルの王として迎えられると、国を安定させたのも束の間、三男アブシャロムに国を追い出され、さまよう日々を送る。アブシャロムとの争いの中で彼が死ぬと、戦ったダビデの側近の労苦を顧みず、息子のために泣きに泣く。それでも再びイスラエルの王として戻る。
そもそも息子たちには父親として甘かったようだ。教育者としては見るべきところがない。しかもいい歳をして不倫略奪をし、そのバト・シェバの夫を謀殺するという罪を犯した。晩年は弱い老人として過ごしたとしか言わざるを得ない。
戦術にかけては天才的であったことは認めるが、人間的には弱さが際立つ。ただ、ダビデは主に顔を向けること、主を頼ることにかけては、確かに曲がることがなかった。人間として過ちも弱さも十分見せる姿は確かであったが、信仰という意味では見事だった。私たちの中でも、自分の至らなさやしくじりを噛みしめながらも、このダビデの信仰にはあやかりたいと願う者は少なくないと思われる。
そのダビデの詩を味わう。説教者は、オーソドックスに詩の最初から少しずつ繙きながら、それにコメントを加えてゆく手法を採った。だが、それは単なる解説に留まるものではなかった。それは、説教者自身がこの詩人と同じように、苦悩を幾度も経験し、それを祈りにより支えられつつ、祈り続けてきたからである。つまり、この詩の言葉が、自分自身の言葉として唱えられてきたからである。
その説教者の辿った解説を、ここで再現することは、もちろん文字面の上では不可能ではない。が、ここはレスポンスである。説教者の解釈そのものの解説をするのではなく、私の受け止め方を、私の祈りとして注ぎだしてゆくのが本筋であると考えたい。
説教者は説教者で、ひとから聞こえてくる噂や悪口、はたまた誤解を含めて、辛い言葉を受けてきたかのように感じた。ダビデも、一時は盛んに褒め称えられ、一旦アブシャロムが王権に就くと、イスラエルの民の罵声を浴びて惨めに田舎に退くことを経験している。その中で、神だけが自分の味方である、という確信を手放さなかったことが、正に信仰なのであった。
説教者から零れた言葉の中で、主に祈り祈りに強められたとき、周りと距離をとるゆとりをもてた、というようなものがあった。このとき説教者は、周りと「境界線」を引いたのだ、というような言い方をしたことが、私の心に響いた。そこから自分の領域に入り込ませない。そこに自分が首を突っ込まない。その意味では、正に「分離」を果たすのであり、「聖」であることを守るのだ。
四方から人間の攻撃を受けたとしても、キリスト者には、天に逃れの道がある。天に向かえば神と向き合う。その神とのつながりが確かにあるのであって、神と繋ぐ糸が「祈り」である。
説教者は、このとき神を仰ぎ見ることが大切であって、自分を見つめることではない、と留意点を述べた。それはその通りだ。だが、そこへ至る前に、自分を見つめる過程は必ずあったはずだ。自分の惨めさ、自分の罪、そうしたものを一度確かに見つめることなくしては、十字架のイエスを見上げることに意味がもたらされることはない。ただ、自分の中に立ち上がる力を見出そうとしたり、自分を信じて頑張ればいいと思ったりすることとは、この信仰は無縁である、ということを強調したかったのだ、とすべきだろうと思う。
怒りに震えよ、しかし罪を犯すな。
床の上で心に語り、そして鎮まれ。(4:5)
「怒るな」と戒めているわけではない。「鎮まれ」との命令だ。ダビデ王は、記録に残る限り、事態に焦り惑った様子は見られない。描写の方法にもよるだろうが、落ち着いて行動しているようである。取り乱したのは、アブシャロムが死んだ、との知らせを受けたときくらいのものではないだろうか。
ダビデ自身、自らの心に語りかけていたのではないかと思うのだ。たとえ怒りに震えても、冷静になれ、それが神の仰せなのだ、と言い聞かせていたと思うのだ。「罪を犯すな」、つまり神から目を背けるな、神とは別のところに救いを求めるようなことを考えるな、というところだろうか。神との間につながっている絆から、手を離すな、と言っているようにも聞こえる。
あなたは私の心に
穀物と新しいぶどう酒の豊かな実りにまさる喜びを
与えてくださいました。(4:8)
説教者は、パウロの言葉「いつも喜んでいなさい」(テサロニケ一5:16)を引く。「喜び」という言葉に私は、いくぶん意志的なもの、理性的なものの気配を覚える。「うれしさ」「ワクワク」には、殆ど判断の入る余地がないが、「喜び」には、一瞬のためらい、または顧みというものを経るものがあるような気がするのだ。
それは、「愛する」にも似ている。日本語の「愛」は、一種の執着を本来表すものであった。むしろ覚りのためには遠ざけるべきものと見なされていた。それが、キリスト教が「愛」という訳語を用いてからは、崇高な理想のものの側に移行したようである。そして、そこにはある種の「意志」が加わるのだ、と説く人もいるほどになった。生の感情では、そう簡単に愛することはできない、愛するためには意志が必要だ、と言うのである。
「喜び」もそのような類いのものであったとしても、だからといって、それは演出するものではないし、作り笑顔で表すようなものでもない。さらに言えば、自分の中にあるものによって生み出すようなものではない、ということになる。そのことから私は、「喜び」は「外から」くる、という受け止め方をしている。あるいは「上から」くる、と言ってもいい。
その路線ときっと同じだと思う。説教者は、ここに「委ねる」というキーワードを立てた。それは、この詩の最後、美しいクライマックスから与えられる言葉である。
平安のうちに、私は身を横たえ、眠ります。
主よ、あなただけが、私を
安らかに住まわせてくださいます。(4:9)
確かにここには「委ねる」という言葉が直接出てくるわけではない。しかし、「委ねる」道の先にある姿が、見事に表現されているといえると思う。その点、説教者に捉え方にそのまま心を寄せたい。
これは、もしかすると、説教者自身の一種の憧れではないだろうか。「眠ります」とあるから、場面は夜。夜の祈りがここにある。そこには「平安」が与えられている。「平安」とは「平和」と区別することができない語であり、個人の心の平和については、「平安」と日本語で訳すようになっていると考えられる。そこには「安らか」な自分が見出される。そうしてくださるのは、主、「あなただけ」なのである。
説教者は、このとき、「神が私を特別扱いする」というような表現をとった。さらりと零れたような言葉だった。決してそれを説明しようとはしなかった。だが、私は目を開いた。神は私を特別扱いしている――そのことをまざまざと見せつけられた経験を踏まえて、正にこの日、自分に与えられた神の言葉を説くメッセージを公表していたのだ。
「勝手なものですが、神に自分を特別扱いをしてほしい、というのが本音です。いえ、本音だとも気づいていないのかもしれません。けれども、そもそも神は、本質的に、特別扱いをする方ではなかったでしょうか。イスラエルをどうして偏愛したのでしょう。不思議極まりありません。」(『スペシャル・ニュース』より)
確かに不思議なことであるが、私に与えられた上からの声が、教会が発する福音のメッセージと、この一点で間違いなくつながるのを覚えた。幸いな瞬間であった。
説教者は、最後に「試練」という問題を取り上げた。しかし神を信頼することがあればよいと語る。人間が「自分が神を信じなければ」と固くなる必要はない。「信仰」という、どこか改まった言葉は、時に形式的なものとなり、一つのカテゴリーのようなものとして目の前に立ちはだかることがある。だが、「信仰」と訳されているその原語は、時に「信頼」とも訳される語である。よりソフトな、近づきやすい言葉として、神に対する「信頼」という言葉で語ることによって、私たちの道標の表示としたのではないだろうか。
特に、説教者はこの「委ねる」ということについて、もう一段落深めるメッセージを準備していた。もちろん「信頼」という心持ちを踏まえてはいるのだが、「結果を受け容れる」ことを以て、「委ねる」ということを見たらよい、と言うのである。
イエスの十字架の姿が、ここで重ねられてくる。イエスは委ねた。父なる神を信頼した。もちろん苦悩の末である。血の汗を流し、恐らくは涙したほどに、辛い覚悟を伴った。実際、肉体的には耐えられない残酷な仕打ちを受けた。それは筆舌尽くしがたい苦しみであった。だが、その「結果を受け容れた」のは確かだった。そのため、十字架の死の先には、「復活」があった。神がイエスを起こし、立たせたのだ。命を与えたのだ。この永遠の命は、イエスをキリストとして信じた者に与えられるものである。
睡眠によって、前日の出来事の記憶も感情も、一旦リセットされる。だから朝は、清々しい。確かに引きずることがないわけではないが、一筋の気持ちのつながりは、一度遮断される。要するに、新たな朝を始めることが可能だ、と言いたいのである。しかし、夜は、その日の何もかもがまだつながっており、むしろそれが総括されて頭と心を襲ってくる。特に人間の心には、消せるなら消したいと思うほどの黒い汚れが、しっかりとこびりついているものだ。
いわば、その汚れを洗うのが、神との交わりである。この「洗う」ことについて説明しようとするならば、イエス・キリストの出来事を、もう一度総ざらいしなければならなくなるから、いま綴ることは遠慮しよう。ただ、神と向き合い、神とつながる道を毎夜辿る。それが夜の「祈り」となるのだ、という知らせを、喜んで受け止めることにしよう。