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悔い改めと救いの道

二つめのアドベントのメッセージであるが、この朝は韓国からの伝道師が担当している。ルカ伝がお好きな様子が、これまでのメッセージから伝わってくるが、洗礼者ヨハネについても、ルカ伝3章の最初のところが開かれた。
 
ルカは、権力者の名を並べて、時代背景を説明する。そう見るのが普通であろう。だが、説教者はここに、対比を指摘する。救い主キリストもそうだが、福音たるものは、世の権力によってもたらされるのではなく、世では力のない存在がもたらすものであり、力のない存在へもたらされるものであるのだ。
 
荒れ野にいたヨハネに、神の力が及んだ。ルカ伝では、ヨハネが生まれる前から選ばれた預言者であることを指摘している。ヨハネはイエスの先駆であり、ユダヤの人々にとっては、まずは著名な人物であった。もしやメシアではないか、と思われるほどの活躍をしていたのだが、その行動は極めて精神的なものに触れることに限られていた。「悔い改め」の福音を、水による「洗礼」という形で人々に示していたのだ。
 
説教者の今日のメッセージは、この「悔い改め」に焦点が当たることになる。が、しばらくは少しばかり回り道をしてゆく。視点は、まず「荒れ野」に向けられる。「荒れ野」とは何であろうか。結果と目的からすれば、「神の奇蹟の起こるところ」である。だが、それは救いの始まりに過ぎない。神との交わりが始まるところであり、そのためには、神との「出会い」がなされるところである。
 
私たち自身が「荒れ野」にいること、否、自身が「荒れ野」ですらあることに気づくことが必要だ。それを説教者は「孤独」や「困難」という言葉で例示する。これは、説教者自身が痛感してきた問題の一部ではないか、と私は推察する。「試練」とか「不安」とか、心情をマイナスなものとして支配するものについては、これまでにもしばしば登場する問題である。また、多少は推測可能な問題である。問題は人間として、簡単に避けることはできない。しかし、そのようなところにこそ、神は働くのである。

「私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中で完全に現れるのだ」(コリント二12:9)を、説教者は引用する。聖書の言葉に強く根拠を置くほどに、この問題は説教者にとって大きい。自分の「弱さ」を知る者は、神の恵みを受ける。あるいは、それが恵みであることに気づく。そうだと知る。そして、平和で優しい人であるのだろう、と思う。
 
イザヤ書の「荒れ野で叫ぶ者の声」の実体を洗礼者ヨハネだ、と福音書記者は説く。その叫びは、「主の道を備えよ/その道筋をまっすぐにせよ」と始まる。先ず「荒れ野」を、このメッセージを聴く者は思い描く。私たちは、その場に連れて行かれる。
 
そのとき、私たちの前にある「道」とは何か。その「道」はいま、どうなっているか。あのイザヤ書の「道」は、バビロン捕囚からユダヤに還る民の道を意味していたであろう。そこは凸凹し、曲がりくねった道であって然るべきであった。出エジプトの民が40年間さまよった、あの荒れ野がここに再現されているものと考えてもよいのではないか。
 
だが、私たちは、ここで道路工事をする必要があるわけではない。長い旅を歩くよう仕向けられているわけではない。もっと象徴的なものだ。もっと精神的なものだ。さらにいえば、それは霊的な出来事である。説教者は「心の状態」の中に、「荒れ野の道」があることを指摘していたのである。
 
しかしそれを覚るためには、その声が響く場についての情景をもっと知ろうとする必要がある。そこは「荒れ野」であるだけではない。「道」が必要なのだ。道ならぬ道がそこにはある。否、本当はまだその「道」はない。これからその「道」を切り拓くのだ。私たちが「穴を掘る」という言葉を使うのは、ある論理からすると矛盾する。掘る対象は土や地面であって、「穴」を掘るのではない。だがこれは、目的を示すのであって、別の論理が働いている。「湯を沸かす」のもそうだ。ここでも、「道を備える」というのは、すでにある道ではない。「道」を切り拓くのである。
 
このとき、私には聞こえてくる声がある。「私は道であり、真理であり、命である。私を通らなければ、誰も父のもとに行くことができない」(ヨハネ14:6)と言ったイエスの言葉である。私たちは、イエスを求めなければならない。イエスが「道」である。
 
結局、クリスマスを待つアドベントの時期は、昔話のイエスの誕生を一緒になって待つ気分を楽しむためのものではない。もっと切実なものである。イエスを待つのである。救いがこの私に来るように、との祈りも関わるであろう。でもそれは個人的な祈りで終わるものではない。神の救いは、すべての人の上にもたらされるに違いない。裁きが及び、救われる者が定まるのである。しかもそれは、約束の中で与えられている。
 
そう。もう一度イエスが来られる、ということをいま正にライブで待つ、私たちの信仰の出来事が私たちにいま起こっていることである。そこに立ってこそ、主の訪れを迎える備えができたことになるのである。つまり、いまのこのアドベントの真髄が与えられることになる。従って、いま連れて来られたこの「荒れ野」に「道」を信仰によって見ることができたか、が問われるであろう。つまり、荒んだこの心に、イエスが道となっているか、が問われるのである。
 
説教者は、いまも常に、神に帰る人のため、人の救いのために祈っているという。それはまた、洗礼を受けるというひとつの形に至るまで、諦めずに祈るのである。そして説教者はここで、「このようなことは語ることがないのだが」というような断りを入れて、少しく経験を話し始めた。詳細はここに再現しないが、説教を通して救われた人を見たときの話であった。そしてそれは、「悔い改め」の説教であったのだという。福音の種は、いつどこで蒔かれるものか、人には分からない。機会を逸することのないように、言わないでいるよりは言うべく努め、また、諦めずに祈り続けることが肝要である。
 
だが、救いをもたらすものは、人間の力ではない。受験生の運命を担う如く、日々過ごしている私である。教科を教え、問題の解き方を教え、時に人生を語る。けなすことなく励まし続けるのは、そこにいるのが顧客であるという理由だけによるのではない。心の内で祈りつつ、説明をし、添削をし、質問に応える。しかし、受験が志望通りになるかどうか、については、私が直接決めることはできない。あとは本人だ、と委ねるしかない。伝道者の仕事は、それとは比較にならない魂の問題であるのだが、いくらかでもパラレルに見ることができる素地はあるのではないかと思う。
 
説教者は、イエスもまた諦めていない、と強く告げた。人間が諦めても、イエスは諦めない。自分なんか救われない、とふてくされている人間に対しても、イエスは救うことを諦めない。自分自身も、そのようなイエスに愛されたのだ。イエスに出会って、救われたのだ。それは自分にとって、否定しようのない事実なのだ。「そんな客観的でないことが、他人の役に立つのか。自分の錯覚や思い込みではないのか」という声が、外から浴びせられるかもしれない。しかし、自分における出来事として、それは事実である、そのように「信じた」者は、それを公言するだろう。それが「証し」である。
 
その救いは、どこから始まるのだろう。「悔い改め」である。説教者は「放蕩息子のたとえ」にも触れる。そのたとえは、見事に方向転換を表していた。正に「悔い改め」である。今日のメッセージは、この「悔い改め」なくしては語れないものだった。救いのすべては、この足がかりに懸かっている。この「悔い改め」ということについては、福音書の中でもルカ伝が特徴的である。他の福音書に用いられた「悔い改め」という語をすべて加えても、ルカ伝に用いられた語の数を上回ることがない。説教者がルカ伝から説教を起こすことが多いのは、この「悔い改め」を信仰の基礎に置いているからかもしれない。もちろん、これ私から見ただけの印象なので、事実誤認はあるかもしれないけれども。
 
とにかく、「荒れ野」となった人間の心の中に、この「悔い改め」が芽生えてこその「救い」であるし、その「救い」はイエス・キリストの業により与えられる。そのイエスは「道」であった。「荒れ野」にこれから通す「道」である。その「道」は、ただひとつ、父なる神へと至る「道」である。神に帰る「道」である。
 
「悔い改め」は、まだ入口に過ぎない。説教者はそう言った。自分の中でのみ、感情や思索がなされて終わるものではないからである。「悔い改め」だと、まだ方向転換だけ、つまり向きを換えただけである。一歩を踏み出してほしい。行動を始めてほしい。「僕の前に道はない/僕の後ろに道は出來る」と高村光太郎は「道程」で宣した。現実に歩いたところにこそ道ができるというのなら、アドベント、それは、その道を歩き始めるときであるべきである。他方、希望という道が目の前にあるというのなら、見えないものを信じる信仰によって、私たちは目の前にイエス・キリストを見て歩めばよいのである。

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