『キリスト者として生きる』
(ローワン・ウィリアムズ・ネルソン橋本ジョシュア諒訳・西原廉太監訳・教文館)
ある方に強く薦められた。信頼している方なので、迷いなくすぐに注文した。訳者についてはそのあとがきで知ったが、若い方だった。しかし訳文は的確だろうと思われる。ひじょうに読みやすいし、内容もスムーズに伝わってきた。その訳の原稿を読むのを手伝った人の一人もまた若い人だったが、知っている人だったので、不思議なつながりを覚えた。
著者はカンタベリー大主教だった方である。英国においては、いわばローマ教皇のような存在である。ローマ教皇の放つメッセージは、カトリック教会サイドからよく発信されているし、書物も多く出て話題になる。それに比べると、英国国教会からのものは、私たち日本人の目にはなかなか触れない傾向がある。需要の問題かもしれないが、こうして堂々と出版して戴けると、よい出会いが生まれる。もし薦められなかったなら、私も自ら購入しなかったのではないかと思う。
これは講演集である。しかし、一連のものであり、基本的教義のいくつかが並んでいる。そのテーマは「いのち」であると訳者は言う。私たちは、コロナ禍を経た。世界中が共通して「いのち」というものと向き合わざるをえなくなった。本講演はそれ以前の2014年発行の原著に載っている。だが、パンデミックの中でも何のためらいも怯みもなく、聖書に基づいて、非常に霊的に、聴く者を導いてくれているのが分かる。読者として分かりやすいのは、聴衆が一度聴いて分かるように話しているからだ。だが、これは読み物としてまとめられている。すばらしいメッセージである。
四つの各章が、聖書の言葉によって開かれ、「振り返りやディスカッションのために」という復習項目で結ばれている。教育的配慮にも行き届いている。これを薦めてくれた方は、本書をテクストとして、共に読み、分かち合っているのだという。なるほど、それは読み終わった者としては合点がいく。各章は、10頁に満たない項目で4つずつ区切られている。読書会のテクストとしては理想的な配分であろう。
項目によっても異なるが、イエスが私たちのためにしてくださったこと、それに目を開かれる読み方がなされる。また、私たち一人ひとりが置かれている状況や、心の中のざわめきのようなものを、人間の言葉ではあっても簡潔に暴き、目の前に並べられるような思いを経験する。最初の「洗礼」についての中でも、すでにイエスが祈っているその中に私たちが含まれていること、だからキリスト者は祈らずにはおれないということが強調される。この勢いが、最後の「祈り」にまで脈々と受け継がれながら続いていくのであるから、後から振り返っても感動的である。
次は「聖書」であるが、キリスト者として生きることはみ言葉を聴くことだと宣言し、キリスト者とは、神が語りかけてくださるのを待つ人々のことだ、と畳みかける。簡単な言葉のようだが、これはなかなか出てこないと思う。誰もが心に感じつつも、言葉に表せないでいることを、ある意味でありふれた言葉で簡潔に述べる人のことを、私は本当に知恵のある人だと思う。もちろんこの場合の知恵とは、神の霊に基づく知恵であって、人間のこざかしい企みなどとは無縁である。この聖書は、神があなたに聴いてほしいと思うものだ、ともいう。イエスが語る「物語」を聴いた結果、私自身にどのような変化があったか、そこが肝要だというあたり、私はしびれた。なぜなら、この問いかけは、「あなたは今、どこにいるのか」という問いと重なるからである。そしてそれは、私の信仰の原点なのである。「あなたはどこにいるのか、誰なのか」、聖書を読むこと、信仰に生きることとは、これ以外の何ものでもない、というのが私の立つところである。これが、いとも簡単に言葉にして並んでいる。これはもう嫉妬したいくらいに羨望の的である。
それから「聖餐」では、招かれているということについて考えさせてくれる。だから、イエスの復活の後に、食事を共にするという出来事の中に、私たちはいのちを受けていくこと、つまり同じ仲間との交わりが生まれ、繋がりができることが始まるのである。私たちは、これまで色褪せていた世界を、新たな光の中で、生き生きと神のいのちの中で輝いているのを見るだろう。キリストがそこにいるために、私たちは世界の中心から外れない。そしてキリストがそこにいるために、この聖餐において、つねにすでに世界の結末と共にあることを知るのである。
最後の「祈り」については、オリゲネスと、ニュッサのグレゴリオスと、それからヨハネス・カッシアヌスの三人の、祈りについての考察ないし霊察とでも言うべきであろうような見解を学ぶ。名前は聞くことはあっても、著作を読まねばなかなかそこまでは知る由もない。私は特に、カッシアヌスとはこんなことを言っていた人なのだ、ということを知ることができて、たいへん喜んだ。心がもやもやとするとき、それは神がすでに内側で働きかけていることをいうのだろう、という洞察も、まさに私が言いたいのはそれだ、というべきものであった。世界のすべてを神の光の中で見るためには、「祈りは頻繁に、そして短く」あるようにと促しているのは、そのスピリットも実に私の中で言葉にならなかったものだというふうに感じた。こうした祈りについて、著者は、私たち人間が知恵を働かせたり自分で考えたりしてのものではなくて、すでに神が私たちの内で祈ってくださるのだ、という方向性を明らかにして本書を結ぶ。せいぜい私たちはそれに対して、私はここにいるのです、と告白することしかできない。それは、「どこにいるのか」という問いかけの答えにもなっていると言うことができるだろう。
説教は神の言葉の出来事として、聴く者を生かすであろう。私はそう信じている。だが、説教という場でなくても、このような「講演」と称される場であっても、神はそれをなさるのだ。本書で私は、それをありありと見た。本の帯には「イエスと共に生きる旅へ」との文字が大きく書かれている。こんないのちの本が、たいへん地味でいるというのは、もったいないことだ。もっと読まれてほしい。日本の教会が、変わりうると思う。
そう分厚い本ではないので、いつでもどこでも、何度でも読み返してよいものだと感じる。私が、生きるために。