黙示録の結び
2023年4月23日に始まった、黙示録の連続講解説教が、ついに今日で結ばれる。間に、クリスマスその他必要に応じて他の箇所から語られることもあり、また、もう1人の説教者が半分近く説教に立つことも通例である。それからゲストの説教者が語ることもあるため、ほぼ1年半にわたり、黙示録すべてから説教がなされることとなった。
しかも、黙示録である。語るに難しいとされる。また、新約聖書の、あるいは旧新約聖書併せて考えての、聖書の完結部分のようなものである。緊張が走る説教が続いたことだろう。また、説教の終わりのところで触れていたように、この期間に、実に多くの教会員を、天へと送った。日曜日を差し挟む場合には、教会堂に棺と共に礼拝をすることも多かった。黙示録という場面にとり、これは実に厳粛なことであった。
私イエスが天使を送り、諸教会についてこれらのことをあなたがたに証しした。私は、ダビデのひこばえ、その子孫、輝く明けの明星である。(黙示録22:16)
これが今日の中心聖句である。この「輝く明けの明星」という言葉に焦点を当て、私たちをすっかり明星のとりこにしてしまった。ただ、説教者はまず告白をする。この「明けの明星」ということについて、長い間誤解を続けていたのだそうだ。
私たちは、この世の中に闇を見る。黙示録の説教が始まったころ、ロシアによるウクライナへの攻撃が始まっていた。その後、イスラエルによるガザ地区への攻撃が始まった。報道はこの二つの戦いが殆どだが、世界中には、何十という、殺し合いをしている場所があるという。
世界には、搾取され貧困の極みを生きている人々も少なくない。そこにあるのは飢餓である。飢餓とは、必ずしも天災としてもたらされる原因によるものばかりではない。多くが、政治的な理由により、年間何千万人という人が命を落としている。そのうちの3分の2は子どもたちである、というふうに説教者は教えてくれた。これが闇でなくて、何であろうか。こんな暗闇のような世界に、主イエス・キリストは、「私は……輝く明けの明星」だと宣言してくださったのだ。
説教者が語った順番によらず、視点を再構成する形でここにお届けするのだが、この「暗闇に輝く明星」という言葉で、違ったイメージを抱いてしまっていた、と説教者は言ったのだ。
というのは、「明星」という訳は日本人にとり美しい言葉として響くものではあるが、ギリシア語では「朝の明るい星」と書かれている。人類はギリシア時代より遙か昔から、金星について知識をもっていたから、明けの明星についてギリシア人が知らなかったはずがない。それをこのように呼ぶのが当然だったのかどうか、私は知らない。
ただ、私は子どもたちに理科を教えることがある手前、中3の理科の必修事項として、金星の満ち欠けについては簡単な程度のメカニズムは知っている。だから、それが金星だとすると、闇に輝く星であるというイメージは決してなかった。天候や時季などの条件によっても違うのだろうが、うっすらオレンジ色に染まった地表近く、やや青みがかった低い空、そんな東の空に目立つ明星(あかぼし)だと捉えていた。有名な「枕草子」の「春は、あけぼの。やうやうしろくなりゆく山ぎは、すこし明かりて、紫だちたる雲の、細くたなびきたる」は、京の東山を描写したものだと思われるが、この「あけぼの」の説明にも近いのではないかと思う。
説教者は、説教を印象づけるために、わざと暗闇だと信じていたような言い方をしたのかもしれないが、改めてこの、朝方の少し明るい光を宿した空のことを、詳しく説明した。このことが、今日の説教の骨子となるからである。
そう。この世の中は真っ暗闇ではないのだ。少なくとも、すでに朝の光が空を染め始めたとき、そのときに、「私主イエスが天使を送り」、語ったのだ。イエスの言葉は、すでに始まった朝の景色を見せながら告げられている。私たちキリスト者が世に置かれたのだ。私たちは、この世界の希望なのだ。神の栄光を歌い続けることができるように、いまここに置かれた一人ひとりが、こうして集められているのだ。――説教の核は、こういうところにあったものと思われる。
さて、私がふと思ったことがある。まず、6節を見ると、この言葉は、天使が私に言ったことが分かる。そして「これらのことを聞き、また見た者は、私ヨハネである」(8)と言っている。但しこの天使の言ったことは、神が言ったはずのことが自由に混じっている。天使が言ったのに、「私はすぐに来る」(7,12)と語り、「私はアルファでありオメガ、最初の者にして最後の者、初めであり終わりである」(13)とも言っている。その告げた言葉の結びが、もう一度引用するが、先の言葉なのである。
私イエスが天使を送り、諸教会についてこれらのことをあなたがたに証しした。私は、ダビデのひこばえ、その子孫、輝く明けの明星である。(黙示録22:16)
元々預言者の書は、このような言い方に満ちている。そのとき、「主は言われる」というフレーズを挟むことが多いが、必ずしもそうではないこともある。ここでも、天使が実際はヨハネに呼びかけながら、神である主が主語の「私」となって告げているような構造になっているのだろうか。
説教者の語りに戻るが、説教者は、「天使」ということにも一度聞く者の心を集めておいた。それは「使い」である。主に仕え、主に忠実なしもべである。オカルトやファンタジーのファンは、こうした天使の世界に非常に興味をもつという。聖書を中心にして、様々な天使についての知識をためこんでいる。だが、説教者は実に刺激的な指摘をここでしてくれた。
聖書が書かれた後の歴史において、天使が現れたという話は、基本的に聞かない。それには理由があるという。神は、聖書が書かれた以降の歴史において、使いたる天使を必要としなくなったからだ。つまり、キリスト者が現れたからである。これは、印象的なメッセージとなった。
私はアルファでありオメガ、最初の者にして最後の者、初めであり終わりである。(黙示録22:13)
この指摘は、ほぼ1:17にも見られた。何を私たちに気づかせるか。私たち人間が、最初の者にならなくてよい、ということである。なんとしても私が始める、その気負いはいらないし、そのような傲慢から離れるべきなのだ。また、私たち人間が、最後の者にならなくてよい、ということである。なんとしても私が終わらせる、と考えてはいけない、ということだ。それはまた、私の人生が、なにか完成されたものでなくてよい、というふうにも教えてくれる。死によって終わることはない。死は終わりではないのである。
ところが1:17に続く18節に、「死と陰府の鍵を持っている」という言葉が登場する。説教者はここにも力を注ぐ。私たちは死の牢に閉じ込められることはない。神はそこから私たちを解放してくださるのだ。そして実に、その福音を、礼拝の度に私たちは聞くのである。説教の中からも、聞く。また、神と会衆との応答の間にも、聞く。イエスがその集いの中央に立っていることを私たちが信じている限り、神の言葉は響いており、共にいる神の愛を知る。
説教者はまた、「ダビデのひこばえ」(16)の言葉にも立ち止まり、この「ひこばえ」には、「子孫」という意味があるほか、「根」という捉え方もある、として、深く根を張るイメージを私たちに与えた。聖書の言葉は、私たちに命を与える。黙示録はこのイメージを強く与えて結ばれる。この黙示録は、「神を礼拝せよ」の一言に尽きる、とも言うのだ。
だから、神の希望の約束を握りしめる私たちは、この世界の希望なのだ。神の栄光を歌い続けよう。礼拝の度に、神を称え、キリストよ「主イエスよ、来りませ」(20)と呼ぶのだ。もう朝は始まっている。キリストが一度来てくださったのだ。その空にひときわ輝くあの星が、キリストを確かに証ししている。私たちは神を礼拝する。いまここに置かれた私たち一人ひとりが、こうして集められているのだ。
しかし、「主イエスの恵みがあなたがたすべての者と共にあるように」(21)との結びを、最後に受け止めなくてはならない。筆者ヨハネから私たちへのメッセージである。この「すべての者」を、キリスト者に限らない、というのが説教者の見解であった。普通に読むと、この書を受けて読んでいる「あなたがた」は、基本的に教会関係者である。もしまだ信じていない人がいたとしても、この書を読んで信じよ、と呼びかけているに違いない。だから、結びの祝福は、信徒かそれに近い人々へ向けて発されている、と理解するべきなのだろう、と思う。それでも説教者は、恵みを「すべての者」に差し向けた。それは、確かな福音のメッセージとなることだろう。説教の言葉は神の言葉であり、ひとを生かす言葉であるはずだからだ。
最後に、宵っ張りの自分は、これからは朝の散歩でもして、明けの明星を見上げたいものだ、というような言葉を、説教者は付け加えた。朝の散歩は、時間の許せる方には結構なことだろう。ただ、いまは金星は「宵の明星」の時期であり、少なくともその時期は来年の春まで続く。当面、明けの明星は見られそうにないことをお伝えしておきたい。