メメント・モリ (死を忘ることなかれ)
新型コロナウイルスの感染者が、2022年になって急増した。不思議なもので、そのピークが去ったと判断したら、様々な規制を解除しようとしている。もちろん、商売が成り立たないという状態の人は気の毒である。だが、解除という文字で、もう大丈夫だと警戒心も思いやりもなくしていく人々が少なからずいるという点だけが問題なのであって、そのためのお上のお墨付きがそうした人を正当化するという構造さえなければ、私はどうぞ解除は結構なことだと考えている。
昨日3月12日の新規感染者数は55328人だと発表されている。そして減少しているとの報道口調である。できるだけ経済は働かせようとする意図があるために解除するのであるが、最初2000年、全都道府県に緊急事態宣言が発令された日の新規感染者数は576人、全国の学校に休校の要請が出た日の新規感染者数は、18人だったのである。どちらも日本全国である。
新規感染者数が、少し減ってきたのは事実である。だが、死者数は、2月下旬で一日に322人を記録しており、250人前後が続いている。
だが、新型コロナウイルスで亡くなるということが、ニュースの表からだんだん消えていくようには感じられないだろうか。いや、人数は報道されている。だが、それが情報としても、心の中に入ってこない、あるいは無意識に拒絶している、というようなことはないだろうか。
人数減っているから、自由にさせろ。そういう思いが先行しているとすれば、亡くなる人の無念さや、その家族のやるせなさと悲しみといったことに、わずかでも思いを馳せることがなくなっていく。そんなことを懸念している。もちろん、その看取りと治療看護に携わる医療従事者のことなど、まるで気にしていないということも。
新型コロナウイルスという現代の疫病は、「死」というレベルで私たちに迫ることがなくなっていく傾向にあるように思えてならない。何が言いたいかというと、ペストなりコレラなり、西洋を中心に歴史の中で猛威を揮った疫病については、「死」が身近なものであったし、その「死」を通して、疫病の姿が、たとえば文学や哲学の中に描かれていた点と比較したいのである。
それは、よい喩えではないかもしれないが、屠殺ということともつながるかもしれない。そもそもこの「屠殺」という語自体、天下の日本語変換IMEでも登録されていないことにいま気づいた。牧場でもいまではその場で屠殺することはないのだという。専門の業者があるというのである。差し詰め、工場のように、すべてが処理されていく。
もちろんそれを悪だと言っているのではない。私たちはそうして殺された動物の死体を食べている。ただそれが死体だという意識がなく、ただの「物」としてしか捉えていない。それが命だったということを考えることもないし、自分が食べるためにその命が死を迎えたということ、さらに言えば人間が殺したのだということ、そこに思いを馳せることは、まずない。
テレビで見たが、『ブタがいた教室』という映画があった。『豚のPちゃんと32人の小学生 命の授業900日』という本に基づくものだったというが、六年生の教師が、豚を育てて最後に食べようという提案をする。最後に教室では、食べる・食べないの議論が交わされる。
農業高校では、鶏などを殺す。私たちは、そのことで生かされている。かつては家畜を飼う人々は、自分のところでそうしたことをしていた。命から死へという営みを、人々は体験していた。それが、現代では変わってしまった。
人の葬儀もまた、そのようになった。
「死」がビジネスになり、工場の産物のようになったとき、私たちは「死」を遠ざけて当然というもののように考えてしまった。そこに起こったコロナ関連の死も、タレントの志村けんさんの時のような、結果だけが戻ってきたというようなことしか捉えられなくなっていく。そこに、文学は生まれない。
人を殺すという、戦争についてもそうだ。壮大な宇宙戦争を特撮で楽しみ、時に過去の大戦の物語も映画では美しく散るようなイメージをかき立てる中で、戦死の殆どが餓死か病死だという点は感じられなくなってしまう。そして、現場で人を殺すということがどんなことであるのか、ベトナム戦争を機に研究されたことさえも、まるで役に立てられなくなってしまっている可能性が高い。
文学も哲学も、そして芸術も、大学の中では隅に追いやられてしまう。経済に役立つ実用学こそが大学に必要だという政策を、私たちがまかり通るようにしてしまっている。コロナ禍の中で、それらは不要物扱いされている。
それは、追い払ったつもりの「死」が、襲いかかり暴れまくるための、準備をしているのではないか、とつくづく思う。
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