神に向き合うとき
ヨブ38:1-11
ヨブと友人たちの対話を、いえ、ヨブの嘆きと反論を黙って聞いてきた主なる神が、ついにヨブに介入します。ヨブに散々不幸を見舞わせておいて、いまさら威圧的に臨むというのはどうかという気もします。些かヨブに同情的になってしまうのは、神の思いを知らないからだ、と非難を浴びるかもしれませんが、正直、ちょっと神はつれないと思います。
4節からは、自然の力をこれでもかと示し、それらを創った者が人ではなく神であることを思い知らせる、長い長いお説教の始まりです。「ここまでは来てもよい」という限界の提示は、示唆的です。人間と神との間には、超えることのできない壁があるのです。カントはこの限界という概念から批判哲学を構築したとも言えるでしょう。
今回は、この神の並べた仔細に拘泥せず、神の登場の場面に注目したいと思います。嵐の中から、主は現れました。論争の嵐のことなのか、人の間の争いの愚かな嵐なのか、定かではありません。主の側の嵐なのか、人間の世界での嵐なのか、考えてしまいます。「知識のないまま言葉を重ね、主の計画を暗くするこの者は誰か」との迫りがありました。
この問いに、それは私です、と答えざるをえません。知恵がないばかりか、知識すらありません。自分の思いつきで世界を説明しても、それはえてして自分の利を図るものです。自己弁護であり、自己正当化の言葉が零れます。自分に都合の良いように事を運ぶための策略を考えて、人は持ち前の知恵を用います。しかし、それが神の前で何でありましょう。
すべてはすでに見抜かれています。光と輝きをもたらす神の世界に、暗黒の影を投げかける遮蔽物にしかならない私がここにいます。自分のためにしか役立たない言葉を次々と重ねても、神と向き合ったときに、それが一体何であるというのでしょう。それが如何に空しく弱い、醜いものであるかということを思い知らされます。
けれども主はヨブを「勇者」と呼びました。一人勇ましく主の前に立つことができるはずだ、というのです。自分を守るためでなく、全存在の主である神から一つの価値ある者として認められたことに誇りを懐くためです。「あなたに尋ねる」と主は迫ります。差し向かいで語りかけます。ここから、神の声を聞くことが本当にできるようになるのです。