生きるために今日 (申命記8:1-10)
◆今度っていつかなぁ
小さな子どもが、おもちゃ売り場で、猛然と「ほしい」と思い始めたとします。ここでその親子の関係性やそれまでの経緯が分かれます。俄然「買って、買って」を連呼する激しい子がいたとして、それに対する親の態度もいろいろあります。「また欲しがって」とまず叱りにかかる親。いつかもそう言って買ったら三日で厭きた、などと証拠を突きつける場合もあります。「だめ」と斬り捨てる親もいますし、「困ったわねぇ」などと、周囲の目を気にしながら子どもの味方であるような演技をする親もいるでしょう。そして「物わかりのよい親」演じながら、「また今度買いましょうね」とにこやかに言ってその場を治めます。
お分かりでしょうが、「今度」という親の決め球は、この現状から一旦離れ、なおかつその件についてはもう再登場のない、終わりの宣言であるに違いありません。
子どとしてはまた今度を期待しよう、などと言われたことを信じることがあるかもしれませんが、たいていその「今度」というのは本人が忘れてしまうのが筋で、要するにその時だけの欲望であったということに、たいていは治まります。中にはその辺りの親の心理をくみ取った子もいて、「今度」というのはもう買わないということなんだ、と諦めの悟りを得ている場合もあるのです。
おもちゃがほしいとき、理性が勝る子もいます。ほしい気持ちを表に出さず、じっと我慢してしまうというタイプ。親を困らせてはいけない、と思うのか、どうせ言っても買ってもらえない、と思うのか、これもその親子関係の中で様々なのでしょうが、こういう時には、この子が「良い子」と認められていくのが通常なのでしょう。
良い子であることがもちろん悪かろうはずがありません。けれども、自分を抑え、あるいは人目を憚るような習性をモットーとして、それが当然のあり方と理解して育った子は、それ相応に苦しい目に遭うこともあるでしょう。成長していく中で、自分を抑えていることに耐えられなくなるときがあるかもしれません。
誤解なさらないで下さい。我慢する良い子が皆そうなる、などと画一的に決めているわけではありません。中にはそういうケースもあるかもしれない、というひとつのストーリーに過ぎません。そうした心の問題を抱えている当事者、またその関係者に、何か近しい感情や情況が経験されていたとしても、何も断定的にお話しするつもりはないということを、ご理解ください。
◆生きづらさ
ここのところ、妙に飛び交うようになってきました。「生きづらさ」という言葉。いろいろなケースがありすぎて、もはや例示することもできないほどです。また、へたに例示すると、それに該当する方がこれをお聞きになって不愉快な思いになるかもしれません。それで、例示抜きで、いまよく聞く、あるいは言う、「生きづらさ」を前提にしてこのまま進むことにします。
「生きづらさ」とは、聞くだけでも辛くなってくる言葉です。もちろん本人はもうたまらない気持ちです。この言葉について少し調べてみると、歴史は思ったより古く、。1981年の日本精神神経学会総会で、地域で生活する精神障害者の困難についての報告で用いられたのだと言うことです。しかし当時はお役所言葉に過ぎなかったように思われます。
雑誌『世界』が1997年に、オウム真理教の地下鉄サリン事件を受けて汲んだ特集が「生きにくさ」という言葉を掲げていましたから、「生きづらさ」自体が広く了解されていたのではないように思われます。
このように、最初その言葉は、精神的な障害を表すひとつの用語だったそうです。ではいまよく使われる「生きづらさ」を抱える人たちは、障害という言葉が示す枠の中に閉じ込めてしまうべきなのでしょうか。それはどうも違うような気がします。おそらく、もっと誰でも覚える思いであるように感じます。また、それは自己責任の問題というよりも、むしろ社会的な責任の中で解決していくようなしなければならない、その必要を私は感じます。いま使った「自己責任」という言葉は、えてして、社会の側が責任を放棄したところで突きつけてくる言葉であるのではないか、私たちは言葉の背後にある企てや心理について、もっと敏感になって然るべきではないかと考えルのです。
それはそうとして、その「生きづらさ」を訴える人に、何か言葉をかけられたら、と願いつつ、申命記から私たちは神の言葉として、生きるための道を探したいと思っています。
ひとつ、少なくとも認めておきたいのは、「生きづらさ」を訴えている人は、さしあたりいま生きている、ということです。ですから「生きづらさ」を口にしても構いませんから、どうか生き続けていて戴きたいと願っています。生きてさえあれば、何かがある、と信じて歩いてくださいとしか言えませんし、そのように信じられる世の中にしなければならないのだと痛感します。
ですから、今日はその「生きる」を正面から掲げます。それでも、やはりほんの一つの片隅から見た景色しか表すことができないとは思いますが、何もせず手を拱いているよりは、何かひとつでもしてみることに致しましょう。
◆律法を守ると生きる
8:1 今日、わたしが命じる戒めをすべて忠実に守りなさい。そうすれば、あなたたちは命を得、その数は増え、主が先祖に誓われた土地に入って、それを取ることができる。
やがてカナンに入ったイスラエル民族は、本来そこにいた民族を滅ぼしたり、追い出したりして、土地を奪います。これが今なおパレスチナ問題として殺し合いや啀み合いの原因となっていることについても考える必要がありますが、今はとやかく言わないことにします。土地を奪うということの是非についても、今ここで検討することはしないことにします。
甘いかもしれませんが、これを一つの象徴として受け取るためです。それで「今日」という言葉に重きを置くことにします。「今度」ではありません。「今度」だと、おもちゃを買わないという意思表示にもなりかねませんが、そういうごまかしを含まない、そしてやたら待たせることもなく、今ここで直ちに、という意味を含めた「今日」です。
主の声を聞いたら、すぐその時に、というのは、考えてみれば、職場での命令はそういうものではないでしょうか。お客様を目の前にして、論議している場合ではありません。ぐずぐずしていると、ビジネスチャンスを失ってしまうかもしれません。金銭なら取り戻せても、患者の命については取り返しのつかないことにもなります。文句なしに直ちに行動しなければならない場面は、私たちは実はかなり経験していることなのです。
もはや、他のことを優先させることができない、ということです。
2021年の夏、講談社現代新書から、『学校ってなんだ!』が発行されました。劇作家の鴻上尚史さんと、工藤勇一さんとの対談が載っています。工藤勇一さんは、かつて東京の麹町中学校の校長をしていた人で、宿題や定期テストを全廃したことで、マスコミを通じて話題になったことがあります。残念ながらそれに追従するような動きはいま起きていないようですが、この工藤先生、まず服装に関する校則をなくしていく改革を行いました。
当然、職員たちは戸惑います。そんなことをしたら、風紀が乱れるとか、おしゃれに気を使って学業が疎かになるとか、従来どおりの懸念を示すに決まっています。そこで工藤先生は、職員会議で、十余りの項目を挙げました。正確に挙げることができませんので、ざっくりとしたお話しかできませんが、服装に関する校則違反の例、いじめの例、たばこを吸う例、などいろいろ挙げた中で、どれを優先して対応しなければならないだろうか、と諮るのです。すると、命や法律に関することが最優先であることは誰もが一致し、それに比較して、服装の問題は全く優先するべきものではないことが了解されていったというのです。
私たちもやってみますか。礼拝に参加する、聖書を読む、日曜勤務を希望する、などと並んだら、さて、何を優先するでしょうか。優等生は、教会生活や信仰生活を優先します、などと言うかもしれません。よい心構えです。でも、気をつけましょう。主イエスは、それを突き進んだファリサイ派の人々や律法学者たちを敵視したのでした。それはどうしてでしょうか。またいずれゆっくり考えましょうか。よろしかったら皆さまも考えてみてください。
◆人は完全ではない
8:1 今日、わたしが命じる戒めをすべて忠実に守りなさい。
「今日」の次に目につく言葉として、「わたしが命じる」を挙げることにします。主なる神が命じたということです。それは、人が定めた決まりではないということを意味しています。今挙げたファリサイ派の人々や律法学者たちに対しては、イエスは、「あなたたちは、自分の言い伝えのために神の言葉を無にしている」(マタイ15:6)と強く非難したのでした。
この神の言葉は、人の中から正しいと見なされて出てきたものではないということです。確かに、人を生かす言葉や知恵も、人から生まれることがあります。けれども、どんなに尤もらしく見えたとしても、人の知恵からのみ生まれた思想は、究極的な力、真に命を与える力はないのです。むしろ、自分の考えは真理なのだ、という傲慢な態度で発されるものについては、百害あって一利なしとすべきであり、却ってひとを殺す言葉となるのだということを、戒めておく必要があろうかと思います。
聖書の言葉に基づいた言葉によって、誰かを生かすことができたら、と願わざるをえません。時に、聖書の言葉そのものであってもよいし、その霊を受け継いだ言葉でもよいと思います。今の時代に、その状況にぴったり合った言葉が与えられるように、祈りつつ言葉を発せられたら、どんなに素晴らしいでしょう。
そう、ただ聖書の言葉をオウムのように繰り返して発するだけで、自分は良いことを言った、とする満足からも、私たちは解放される必要があります。どうかするとそれは、ひとの傷口に塩を塗るようなことにもなりかねません。自分は良いことをしたのだ、言ったのだ、と譲らないとき、相手が苦しんでいる上にさらに圧力をかけているということに気づかないならば、聖書の言葉をどんなに口から告げたとしても、何の力もないどころか、ひとを殺すことにもなるのです。それは、イエス自身、荒野の誘惑のときに、悪魔が、旧約聖書の言葉を以てイエスに迫ったことを思い起こさせます。
人は、自分が完全だと思う瞬間を喜ぶような誘惑を常に受けています。
◆律法主義の問題
8:3 主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。
そして有名な箇所まで来ました。四十年の荒れ野の旅の苦しみを、事ある毎にイスラエルは思い出すようにと促されます。それは、人がパンだけで生きるのではなく、主の口から出る言葉によってこそ生きるのだということを、あなたがたが知るためである、と告げました。「ため」という目的は、時に、「結果そうなる」という読み方ができる言い回しです。「僕は目当ての物を買うために小遣いを貯めた」というのは「僕は小遣いを貯めた結果目当ての物を買うことができた」ということを意味すると考える場合があります。少しニュアンスは変わりますが。それでこの有名な聖書の句も、こう読んでみましょう。あなたがたは苦しみ、飢え、不自由な食事を強いられたが、その結果、人が生きるのはパンだけではなく、主の口から出るすべての言葉によって生きることを知ったのだ、と。
パンが不必要だなどとは言っていません。パンも必要です。だから、飢えた人にはまずパンが必要です。要らぬ理屈やお説教は要りません。主も、荒れ野の民が不平たらたらでけしからんと思ったとしても、まずマナを降らせたのです。しかし、それだけではないとここでは言っています。人が真に生きるためには、神の言葉が必要なのだ、と言うのです。
主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。(創世記2:7)
創世記のこの記事を思うとき、神の言葉は命を吹き込むことであると受け止めることができるように思います。ここでの「息」は、いわゆる「霊」の語ではなく、まさに「息を吹き込む」という言葉になっていますから、生かすために神がまさに命を吹き込んだのです。
8:1 今日、わたしが命じる戒めをすべて忠実に守りなさい。そうすれば、あなたたちは命を得、その数は増え、主が先祖に誓われた土地に入って、それを取ることができる。
「今日」、主が「命じる」戒めを守れば、あなたたちは「命を得」るのだ。主が「命じる戒め」は、人を束縛するためのものではなくて、人に命を与えるためのものだというところは、幾分逆説的ではありますが、味わうべきものを含んでいると言えるでしょう。
親が子に命じることについては、その子が適切に教育され、成長するために必要である場合があります。ユダヤ文化では、この子への教育は非常に重要なことであって、鞭打っても子を親に従わせるべきだというような考えがたくさん聖書に書かれています。但しそこには主に従うためという前提がありますから、闇雲に親が子を厳しく育てればよいというものではないし、まして暴力を振るうということを正当化するべきではありません。それが今日問題にしている、人間が決めたこと、人間の知恵に基づく行為になってしまいますから、極端に走らないようにしましょう。
◆超越した新しい律法
神の命令、神の言葉には、もっと愛に満ちたものもありました。レビ記にも、こんな規定があったのです。
19:17 心の中で兄弟を憎んではならない。同胞を率直に戒めなさい。そうすれば彼の罪を負うことはない。
19:18 復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。
但し、確かに「主を愛する」ことに触れた言葉の方が比較にならないくらい多いということは、申し添えておくべきでしょう。
しかしそれにしても「愛しなさい」という言葉は実に残酷です。いったい、「愛しなさい」というような命令が、あるものでしょうか。愛は、命令されてできるものではないように思われます。また、愛は義務にもなることができないでしょう。それに対して、主の命令を「守る」ことが命じられているのはまだ幾分教育的であるかもしれません。行動の上で従うことはできるかもしれないし、それを心から守り従うということも、ありうることでしょう。逆に言えば、心で「はい」と答えるだけでは十分でなく、行動の上でも従うことが求められていると受け取るべきだと理解しましょう。
そのとき、神の命令は、私たちが「律法」、あるいは道徳や倫理と見なすようなところを超えて、新しい世界をもたらしてくれるようになることが期待できます。「愛しなさい」という無茶ぶりな命令が、私たちに実現することを期待したいと思います。
あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。(ヨハネ13:34)
この「わたし」はイエス・キリストです。イエスの愛が、私たちに与えられた律法を、命あるものに変えるのです。十字架の上で命を一度奪われたイエスだからこそ、それができたのだというのが、キリスト者の信仰となっています。
◆言葉が命となるとき
しかし、私たちは簡単には人を愛せません。愛せない場合があります。たとえ愛そうとしても、相手がそう受け止めない場合があります。私が自分では愛だと思っていることが、相手にとっては愛ではないように映ることがあるのです。それは元々私の側で愛でもなんでもなかったからであることが殆どです。結局自分の利益のためにやっていたとか、相手を道具のように考えていたとか、自分本位に相手を従わせようとしていたとか、様々な場合があります。
実に、人の言葉は現実とはなりにくいものです。神の言葉であったら、言葉が即現実になり、言葉が存在になるものなのですが、人だとはそうはいきません。人は、ちょっとした言葉により生かされる、救われる思いをする時があります。けれども、私は、人間からの言葉によっては、助かる場合もあるかもしれませんが、必ず生かされるとは限りません。すると、私を常にきっと生かし、救う言葉があるとすれば、それは神の言葉である、ということになります。
生物学的に生きているさ、という問題ではありません。主の言葉など関係なく、生命活動がなされているなどという考えとは一線を引くことにします。それも尊いことですが、「死んでも生きる」(ヨハネ11:25)ことは本当だと信じます。あなたの大切な人が逝ったとき、もうその人は本当に消えてなくなりましたか。幻であろうと、思い込んでいることであろうと、あなたの中で生きているのは事実ではありませんか。その人は生きているという自覚はないかもしれませんが、あなたが生きている限り、あなたの中でその人は確かに生きているはずです。そして、あなたが生命活動ができなくなったときも、あなたのことを、誰かが思うならば、その時あなたは生きていると言えるでしょう。その意味でも、あなたは今ここで、永遠と呼ばれうる命を与えられたことに、ならないでしょうか。
永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。(ヨハネ17:3)
「知る」とは、知識だけのことではありません。体験すること、出会うこと、深い意味を覚えつつ全身全霊で交わるようなことだと理解されます。神と、イエス・キリストと、あなたが出会い、あなたが変えられる体験をしたとき、あなたはその時すでに、永遠の命を生きる事ができるのです。壊れかけた人格が直され、途切れかけた命がつながります。今がどんなに不幸に見えても、今日を、主の言葉によって生きることができるようになります。そして私たちには、そのための新しい律法、新しい戒めが、与えられています。偉そうに守ることはできないけれど、謙虚に守ろうと思い立つことならばきっとできる、新しい戒めが、イエス・キリストの口からこのように告げられました。
あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。(ヨハネ13:34)