哀しみの中に希望を見出すなら
哀歌3:22-27
哀歌は悲しい。酷い情景描写が続きます。その中に希望を見出せるようには思えません。輝く宝を探すような気持ちが失せようとする中、ここにかすかな光を覚えます。「主の慈しみは絶えることがない」と、絶望的な情況の中に、それでもなお主を見上げます。この慈しみある方が、我らと共にいる、と詠います。「その憐れみは尽きることがない」と。
我らを主は憐れんでくださる、との信頼がここにあります。憐れまれるべき存在になるのです。人権とか戦争犯罪とか、曲がりなりにも現代社会には、大義名分があります。しかし古代社会には、そういうものすらありませんでした。強いか弱いか、生きるか死ぬか、それしかありません。主に祈るというのは、今よりもなお切実だったはずです。
人や社会を頼ることはできませんが、この主の慈しみと憐れみは、「朝ごとに新しい」のでした。今日がだめでも、明日また新しいことが起こることを望むことができます。「あなたの真実は尽きることがない」のです。まだ、この後も起こるでしょう。「私は主を待ち望む」ことができます。「我ら」ではなく「私」と明確に言っています。
今の私もこの詩人に心を重ねることができます。たとえ独りでいても、共に祈ることができます。「主は、ご自分に希望を置く者に ご自分を探し求める魂に恵み深い」からです。私はなおも主を見上げます。希望を捨てません。主は、そういう魂を、決して落胆させることはないと信じています。私は、主に祈ることができるのです。
「主の救いを黙して待ち望む者に恵み深く 若い時に軛を負う者に恵み深い」と詩は結ばれます。騒がず呟かず、ただ黙々と主の救いを待とう、そう詩人は決意します。信仰の忍耐は報われるのです。「若い時」は、短い一生の人間にとっては、すべての人間のことを言うのだと思います。多少の年配でも、しょせん「若い」者にすぎません。