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孤独を覚えるとき

孤独は、当たり前のことだ、とも言える。人は、ひとりで世に現れ、ひとりで世を去る。もちろん、祝福されて生まれることが多いだろう。大切に愛されて育てられる、ということがあって然るべきである。だが、名誉も財産も、愛する人も、世を去るときには携えることはできない。
 
すると、生きていることそのものが、本当は孤独であるというふうにも思えてくることがあるだろう。仲間とか連帯とかいうことに、喜びを覚えることが空しくなる人がいるかもしれない。また、そうしたところで傷ついて、人と交わることから離れてしまうこともあるかと思う。
 
だが、それどころではない事例がある。福音書を開いてイエスの生涯を辿ると、イエスはなんと孤独であったことだろう、と思わされる。弟子たちがそばにいた。だが、弟子たちがイエスを理解していたようには描かれていない。
 
群衆がイエスを取り巻いた。何千人もの聴衆の前で教えを語ったり、パンを供したりした。だが、「群衆」という言葉が臭わせているように、イエスの前にはただの「烏合の衆」のように群がることばかりだった。
 
世間で下に見られている人に、慰めの言葉を与え、共に食事をしたら、なんてことをするのだ、と白眼視された。社会的地位のある人々から、石を投げられたこともあったし、捕えられようとなったこともしばしばだった。
 
時折、イエスの家族がイエスのところへ来た。だが、それはイエスを理解していたというほどのことではなく、イエスは自分の家族や兄弟たちよりも、イエスを信じイエスに従う者を上に置くしかなかった。
 
挙句、教えたことで妬みを買い、弟子たちにも逃げられ、あらぬ容疑で逮捕される。裁判で弁護してくれる者もなく、かつて癒やし、パンを配った群衆の怒号を浴びた。一方的に鞭打たれ、ずたぼろになった姿で、自分の死刑台を背負わされ、罵声を浴びながら晒し者となって歩き、究極の晒し者として、釘打たれて十字架に掲げられた。誰も助ける者なく、支援の言葉もなく、自らの体重で体の内部から引き裂かれるという、この世で人間が味わう最悪の苦痛の中で、絶望の叫びすら挙げて、絶命した。
 
結局、このときまで、誰かイエスを理解した者もいなかったし、イエスが心許せる友はいなかった。もちろん、弟子たちをイエスは「友」と呼んだ事例はある。が、それはイエスからの恵みであって、イエスが孤独でなかった、と述べる理由にはならない。
 
ヨセフとマリアには、温かく見守られていたような気がする。親元を離れたのは30歳の頃なのだろうか、そこまでの隠された生活は、もしかすると孤独感が少なかったかもしれない。だが、親から必ずしも理解されていたというふうでもないようだ。
 
イエスは父なる神との交わりに生きていた。ヨハネ伝でたっぷりと、その祈りが描かれている。だが、人となった神は、人々の間では、孤独の中で歩むしかなかった。人は孤独である、という原理は、ここに根拠づけられたように、私には見えてきた。
 
自然に包まれて、生き物の息吹を感じるときには、むしろそれらとつながるものを感じることがある一方で、都会の喧噪の中にいるからこそ、孤独を覚える、ということがある。「人を隠すなら人の中」などとも言うが、周りが賑わっているからこそ、孤独の自分が際立ってしまうものであろう。
 
孤独を生きたイエスの姿は、ひとりぼっちの人への、最高の力添えとなることができるのではないか、と期待している。

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