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イスラエルに始まる救いの物語

ルカ1:46-56 
 
ルカの告げるストーリーは、実際その通りの会話があったことを記録したとは言い難いでしょう。ルカの構成するキリストの物語のために脚色した、とするべきだと思われます。それでいて、そこに含まれた歴史的真実・信仰的主題は、決してたんなる空想物ではない、と見てよいのではないでしょうか。ここには意義ある物語があります。
 
マリアの賛歌は、美しい信仰の告白にもなっています。突如訪れた運命を一度受け止めたものの、さらなる不安や恐れに襲われたのではないか、と推測します。一少女がエリサベトの出会いにより、孤独から立ち上がったという場面です。自分は神に名指しで、神の計画の中へと招き入れられました。その目は神へと一途に注がれています。
 
否、神と結びつけられています。神からここへ糸がつなげられたかのようです。大いなる事が、自分の上に起こりました。慈しみはとこしえに、とイスラエルの詩人が盛んに歌ったことと異なってきます。ここでマリアも、末尾にそのイスラエルとの関係を強く意識しているのが分かります。イスラエルの救いがいまここに始まろうとしているというのです。
 
その成否が自分にかかっているという自覚が生まれ、緊張が走りますが、同時に何か喜びもあるようです。人間としての危機もそこにあるのですが、一種の昇華がなされているようにも見えます。この主は、世の権力から思い上がっている者を引きずり下ろすという過激な表現もありますが、イスラエルの復興を軸にして見ると、当然のことだともいえます。
 
マリアは、否読者は、ここにイスラエルにおける救いの成就を知ることになります。ルカは、異邦人への救いの拡がりをこの先描くのですが、そのためには、まずイスラエルが救われなければなりません。マリアの口を通して、ここイスラエルに神の介入が確かに起こり、現実の少女マリアの上に神の物語が始まったことを、私たちは目撃します。

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