新しく生まれる (テトス3:1-11, ペトロ一1:3)
◆救い
「救われる」ことは、多くの宗教が口にします。様々な救われ方の説明があります。日常的にも使われる言葉です。「あなたにそう言われると、救われる」というように、ほっとするような気持ちになれることを表現するのです。
「すくわれる」と耳で聞くだけでは、二つの別々の漢字の区別がしづらくなります。「救われる」と「掬われる」です。いま私たちは、前者の「救われる」ことを言っていました。しかし、「主に液体の中に手や道具を入れて、下から何かを受けるようにして取り出す」という意味での「掬われる」を思う人も当然いてよいのです。これらの言葉は、元々やまとことばでは同じ系統から生まれたのではないでしょうか。
キリスト教の「救い」はどうでしょうか。下から拾い上げられるイメージはあまり感じません。上から、つまり天からひとを掬い上げるというのは、少しあるかもしれません。それよりも、天に挙げられること、つまりは、この世での役割を終えていわゆる死を迎えるとき、天に引上げられるようなイメージならあるでしょうか。キリスト教会では、それを「召天」と呼びます。
復活後のキリストが天に上がってゆくことは「昇天」ですから、人間の「召天」とは漢字を変えています。
俗には「天国に行く」とも言いますから、案外この「掬う」というイメージも、よいものなのかもしれません。しかし聖書ではどうでしょうか。そもそも信じている人は、「救われている」という意識をもっています。「救い」の体験のないクリスチャンというのは、考えにくいものです。かといって、その「救い」とは何ですか、ということは、一部の教会では、あまり関心がないのか、案外正面切って問うことがないようにも思われます。
聖書は、「救い」について、多岐にわたって考えられているように思います。新約聖書だと、イエス・キリストを通して救われるのが通例ですが、旧約聖書にはイエス・キリストは直接は登場しません。そのとき「イスラエルの救い」などというのは、「終末の救い」がイメージされるものと考えられます。地上での救いのような描写があるように見えます。
聖書でよく見られる言葉のひとつに「神の義」というものがありますが、この「義」というところを「救い」と読むと、人間の側からの具体的なイメージが与えられる、という話があります。すべてがそうだとは言いづらいのですが、読むときのひとつの方法にすることは、悪くないような気もします。ただ、今日はその「義」のことはさておき、私たち人間の「救い」の体験の方に、関心を向けてゆきたいと願っています。
◆支配者への忠誠
テトス書をお開きしました。新約聖書の中でも、遅い時期に書かれたと推測されている文書です。パウロが書いているように名が挙がっていますが、あのパウロ本人がこれを書いたとは、いまではあまり考えられておりません。テモテへの手紙の最初の方と、強いつながりが見られるようです。
テトスという名前の人物そのものは、パウロがよく知っています。特に第二コリント書には、テトスに関する言及が多数あります。が、恐らくそれより先に書かれたであろうガラテヤ書2章には、そのテトスとの関わりが記されています。
1:その後十四年たってから、私はバルナバと一緒に、テトスも連れて、再びエルサレムに上りました。
2:都に上ったのは、啓示によるものでした。私は、異邦人に宣べ伝えている福音について、人々に、とりわけ、おもだった人たちには個人的に示しました。私が走り、また走ってきたことが無駄だったのかと尋ねたのです。
3:また、私と一緒にいたテトスでさえ、ギリシア人であるのに、割礼を強いられませんでした。
このテトスに宛ててパウロが書いたのがテトス書だと設定されています。テモテ書二つとともに、「牧会書簡」というジャンルでまとめられていますが、教会を司る人物へ、教会運営に役立つ教えを書いたように考えられます。教会組織がそれなりにしっかりしてきたような印象を与えます。
どうにも「迫害」という被害者意識が表に立ちがちですが、信徒が増えていく中で、組織としての教会運営は大きな課題であったことでしょう。ユダヤの地を離れた活動では、地域社会からの信用を得ることは大切な課題であったと思われます。
1: 人々に、次のことを思い起こさせなさい。支配者や権力者に服し、これに従い、あらゆる善い行いをするよう心がけなさい。
2:また、誰をもそしらず、争わず、寛容で、すべての人にどこまでも優しく接しなければなりません。
この章の初めのこの箇所は、現代社会では時に評判の悪いものです。「支配者や権力者に服し、これに従い」などという命令を、素直に聞くゆとりがない場合があります。おとなしく権力の犬になれというのか、と興奮する人もいそうです。
しかし当時のみならず、いまでもなお、私たちは必ずしもキリスト教とは関係のない権力の下で、治安の良い社会生活をしていると言えます。警察があるから、安心して暮らせます。警察の権威がそれなりに強いから、世の中で悪が簡単にははびこりません。盗まれ、殺されてもひたすら泣き寝入りの世の中で、訴える先もないようであれば、とても安心して暮らせるものではありません。悪を許さない権力があってこそ、信頼を以て社会生活を送ることができるというわけです。
最近、ルワンダの虐殺の時の体験談を読んでいます。そこでは、警察と政治権力者が、1割強の民族を「ゴキブリ」と呼んで「皆で殺そう」と呼びかけていたといいます。「支配者や権力者」のための祈りが、どんなに大切なことか、思い知らされるような気がします。
◆教会からの追放
組織がしっかりしてきたということは、教会の秩序の形成があると言うことです。また、社会の中での教会の立ち位置のようなものを考えているから、社会権力との関係も気にしていたのだと思われます。他方、教会内部においても、組織立ってきたら、問題が起こってきた場合の対処法が決められます。
9:愚かな議論、系図、争い、律法についての論争を避けなさい。それらは無益で空しいものだからです。
10:分裂を引き起こす人は、一、二度戒めたうえで、除名しなさい。
11:あなたも知っているとおり、このような人は心がねじ曲がっており、自ら悪いと知りながら罪を犯しているのです。
教会として避けるべきことが挙げられています。が、ここで目を惹くのが、「分裂を引き起こす人は」「除名しなさい」というところです。ルターの動きを見たカトリック教会は、間違いなくここを参照したことでしょう。
なにしろ「除名」です。教会とは無縁の者とするのです。「このような人は心がねじ曲がっており、自ら悪いと知りながら罪を犯している」からです。どんな人が実際にいたから、このように書かれたのでしょう。それは分かりませんが、よほど悪質な者による混乱があったのでしょうか。
問題としては難しいものがあります。教会というところは、外部からの人を受け容れるのが通例です。決して秘密組織ではありません。しかし、悪意をもった人を受け容れることには、勇気が必要です。そればかりか、悪意があるのかどうか分からない人、少なくとも見た目は善良な人については、偏見をもつことは避けなければなりません。
以前、元ヤクザが教会を訪ねてきた、というような話がありました。ファッションではないタイプの刺青のある人が礼拝に来た。さあ、教会はどうする。むしろそのような人をウェルカムで迎える使命をもつ人が牧師であるとき、その教会には次々と曰く付きの人が集まってくる、という報告もありました。
いわゆるホームレスの人々を迎え入れる教会も、いくつかあります。牧師の使命感によるものでしょうが、なかなか一般の教会では、どうしてよいか分からないかもしれません。ホームレスの人がいる公園に、炊き出しや弁当配布などをすることに協力する教会もありますが、それらの教会に、直接それらの人々が礼拝に集うようなことが、どのようにあるのか、もっと声を聞かせてもらえれば、と願います。もちろん、教会に誘うのが第一の目的ではないのですから、それを数字で評することは控えたいと願います。
障害者を受け容れられない教会も少なくないと思われます。点字の聖書がないとか、手話通訳がいないとか、会堂まで車椅子で行けないとか、見合ったトイレがないとか、いろいろありそうです。
さて、それとは別に、困った人を、言ってみれば排除せざるをえないような教会の姿が、テトス書の時代から描かれていた点は、注目すべきでしょう。その是非については、当時の情況を知ることのない私は、迂闊に判断を下すことはできません。私たちがいまどうするか、それを考えることは必要だとは思いますけれども。
ところが、どうしようもない人間像が、今日開いた箇所の中に、もう少し具体的に描かれています。
3:私たち自身もかつては、無分別で、不従順で、道に迷い、さまざまの欲望と快楽の奴隷になり、悪意と妬みのうちに日々を過ごし、人に嫌われ、互いに憎み合っていました。
これは、教会にいたら困る、というようなタイプの姿ではありません。信仰をもつ以前、つまり回心前の姿を描いています。いわば、私もまた、このような人間だった、と言うことです。
◆新しくされる
4:しかし、私たちの救い主である神の慈しみと、人間に対する愛とが現れたとき、
5:神は、私たちがなした義の行いによってではなく、ご自分の憐れみによって、私たちを救ってくださいました。この憐れみにより、私たちは再生の洗いを受け、聖霊により新たにされて救われたのです。
今日光を当てるのは、この辺りにしたいと願っています。4節は、イエス・キリストの現れのことを伝えています。愛が現れる、というところに、イエスの姿を見ることができると思うからです。
神は、私たちを「救った」ということがはっきり書かれています。今日注目した「救い」ということです。神は私たちを救ったのです。しかもそれは、私たちが善い行いをしたから、ではありません。救われるに相応しいことを行ったから、ではないというのです。救いの実現は、ただ神の憐れみによるものでした。神の「恵み」と言ってもよいだろうと思われます。私たちの功績ではありません。善行でよしよしと褒められたのではない、というのです。
イエス・キリストの愛は、私たちが善いことをしたから救おう、とするものではないのです。この神の救いによって、キリスト者は「再生の洗い」を受けました。水による洗礼と見てよいかと思います。「再生」は「新生」と呼んでもよいでしょう。新しい命を生きることです。さらに、神が「聖霊」という形で臨んで、私たちは刷新されるといいます。「新しくされる」ということです。救いは、新しく生きること、また、神が新しくすること、この両面により成り立つことのようです。
私たちの主イエス・キリストの父なる神が、ほめたたえられますように。神は、豊かな憐れみにより、死者の中からのイエス・キリストの復活を通して、私たちを新たに生まれさせ、生ける希望を与えてくださいました。(ペトロ一1:3)
ここにも、似たような言い方がなされていました。特にここは、「イエス・キリストの復活」ということが中心に掲げられています。私たちは新たに生まれることができたというのです。
◆生まれ変わり
新たに生きる。それを願う人は少なくないかもしれません。辛い人生を送ってきた人。もう一度生まれ変わって出直せるなら、と現実に絶望している人。何か人生の岐路を誤って、あのときに戻ってみたいと思う人。自分というものがとことん嫌で、違う自分に生まれ変わりたいという願望をもつ人……。
密かに、生まれ変わりを期待する心理は、近年の「転生」アニメの多さからも感じられます。令嬢だとか歴史上の人物だとか、蜘蛛や剣、スライムとか自動販売機とか、どこまでいけば満足するのか、生まれ変わりにまつわる物語が人気を呼んでいます。
以前、イエス・キリストの復活を思うときに、安易に「転生」するというのは如何なものか、と呟きましたが、今回は、復活という意味ではなく、「生まれ変わり」という意味で、この異常な気配の背後にある心理を考えようとしています。
この「生まれ変わり」ということで、聖書をご存じの方々が多く思い起こすのが、ニコデモという人物だろうと思います。ヨハネ伝の3章の最初からですが、引用すると長いので、端折りながらお話しすることにします。
ニコデモは、ファリサイ派の一人でした。地位も高かったようです。イエスを実は慕っていました。しかし、仲間の手前、イエスに会いに行くことはなかなかできません。そこで夜、闇に隠れてイエスに会いに来ます。そしてイエスに対して、一種の信仰告白をします。するとイエスは、直ちに応えます。「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」(3:3)
すると、ニコデモはこれを理解できないために、妙なことを返します。「年を取った者が、どうして生まれることができましょう。もう一度、母の胎に入って生まれることができるでしょうか」(3:4)と。
なんともトンチンカンな返答です。イエスを慕っていたわりには、イエスの教えを理解しているとは言えません。が、私たちはこれを嗤うようなことは慎みましょう。私たちも、さして違わないような気がしてならないのです。もちろん、ヨハネは、このような極端な勘違いを描くことで、私たちに「霊から生まれた者」とは何であるのかを、教えようとしているに違いありません。ニコデモのことを見下すのは、私たちのすべきことではありません。
この場面でイエスは結局、「信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るため」(3:15)にこそ、自分の十字架があるのであり、まさにその役目はイエスにしかない、ということをニコデモに話します。
もちろん、これはニコデモにのみ言ったわけではありません。聖書をこうして開いているすべての者に、つまり私に、私たちに、これを告げているのです。
「生まれ変わる」というのは、別の生命体になることではありません。いわば悔い改めの洗礼で、「かつての自分に死に、新しい命に生かされる」という、至極単純なところに、私たちの気づきがあるようにしなければならないのです。
そしてその次の節に、聖書の中の聖書と呼ばれる言葉が待っているのでした。
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。(3:16)
この脈絡で、私たちはこの聖句を受け取っていたでしょうか。
◆新生意識
信じる以前には、自分は何か大事なものがあると考えていました。しかし、聖書を信じ、イエスを信じてからは、かつてとは全く違う世界が目の前に開かれた思いがしました。
3:私たち自身もかつては、無分別で、不従順で、道に迷い、さまざまの欲望と快楽の奴隷になり、悪意と妬みのうちに日々を過ごし、人に嫌われ、互いに憎み合っていました。
5:神は、私たちがなした義の行いによってではなく、ご自分の憐れみによって、私たちを救ってくださいました。この憐れみにより、私たちは再生の洗いを受け、聖霊により新たにされて救われたのです。
この「新生」の意識は非常に重要です。価値観が変わります。世界観が変わります。見えていた景色が、全く違うもののように見えてきます。あなたは「救い」を体験したときのことを思い出してください。何気ない風景も、生き生きとあなたの目の前で輝いてはいなかったでしょうか。そこに光を感じたのではないでしょうか。あなたの「救い」は、あなたの意識を変えたのではないでしょうか。
ただ、気をつけるべきことがあります。それは、心に一定の傾向を抱えた人々です。「心の弱い」といった婉曲な表現を用いることもありますが、割り切っていえば「精神障害」という診断を与えられたような人です。来るのです。もちろん、妙な偏見をもつべきではありません。しかし、牧会者と役員その他、ある程度の知識を有しておくことが必要です。対処の基本というものがあるからです。
基本的に、温かく迎え入れることが必要でしょうが、症状にもよります。他の人々と区別することなく、聖書の話は聞いてもらいます。そうすると、患者と呼ばれる立場のその人が、福音をすんなりと受け容れることがあります。そして、「生まれ変わった」とか「新しい命を生きます」とか口にする場合があるわけです。
クリスチャンはえてしてお人好しですが、このような様子を見て、福音書の出来事がいま目の前で起こったような気持ちになることがあるでしょう。「これは聖霊の働きだ」「救いがいま起こった」と喜ぶのです。
しかし、精神病の常識からいくと、突然のこのような「新生意識」は、気をつけるべきことだと言われています。このような反応を起こす場合があることが、病例としてあるそうなのです。冷静な知識と勇気を以て、現象に疑いを入れることも、時には必要だということです。
◆新しく生きる
私たちは、かつては、「無分別で、不従順で、道に迷い、さまざまの欲望と快楽の奴隷になり、悪意と妬みのうちに日々を過ごし、人に嫌われ、互いに憎み合っていました」。しかし、イエス・キリストの現れによって、私たちは神の憐れみによって、救われました。私たちは新しい命に生かされています。神の霊が、私たちを新しくしたのです。
そのように、「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることは」できません。「神の国を見る」というのは、神に支配される人生を生きることを意味します。この世の中には、信じられるものがあるということ。人間の希望は空しく終わらないということ。どうせこの世は……とひねた見方、諦めた見方をしたくなることがあるかもしれません。
でも、そのように悲観的な見解をとる人は、心のどこかで、「そうじゃないんだよ」と言ってほしい心理がある場合があります。そんなに簡単に生き直すことができるのか。そう思う人も、世の中には沢山いるわけですが、聖書は、その人にも、きっと明るい光のある方を教えてくれるものだと思います。
先のペトロの手紙第一には、テトス書と同じようなことがまとめられていました。
私たちの主イエス・キリストの父なる神が、ほめたたえられますように。神は、豊かな憐れみにより、死者の中からのイエス・キリストの復活を通して、私たちを新たに生まれさせ、生ける希望を与えてくださいました。(ペトロ一1:3)
ペトロの手紙も、テトス書と同じように、パウロの考えを受け継いだ人の手による作品ではないか、と言われています。だから共通点があることは、不思議なことではありません。この箇所の少し時にも、印象的な箇所がありました。
23:あなたがたは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生ける言葉によって新たに生まれたのです。
24:こう言われているからです。/「人は皆、草のようで/その栄えはみな草の花のようだ。/草は枯れ、花は散る。
25:しかし、主の言葉は永遠に変わることがない。」これこそ、あなたがたに福音として告げ知らされた言葉なのです。
この神の言葉は、永遠である、というのです。たとえ人がその辺りの草のように、間もなく枯れ朽ちてしまうものだとしても、「主の言葉は永遠に変わることがない」と言っています。そこに「永遠の命」があることが関わってきます。そこに希望があります。この神を信頼するというのは、永遠の存在を信じるということでもあったのです。
それから、神が永遠であり、神の言葉が永遠に変わらない、ということは、ひとつ裏の真実を私たちに教えてくれていることに、気づいた方がいらしたでしょうか。神の言葉は「変わらない」と強調されていました。ならば、人はどうなのでしょう。人は永遠に変わらない、ということはない、と聖書は言っているに違いありません。人は変わるのです。
人がどうして新しく生まれるというのか。また母親の胎の中に戻るとでもいうのか。自分はどうせこんな頑固者だ。いまさら変わるはずなどないじゃないか。自分の人生も、自分の性格も、自分の生活も、永遠にこのままなのだ――そのように言い切ることは、まるで自分が神になったような言い方をしていることに、なりはしないでしょうか。私たちは変わるのです。変われるのです。あなたのダメなところも、あなたの失敗も、あなたの悔しい思いも、あなたの惨めな生活も、あなたの残酷な心も、あなたの流した涙も、そのまま永遠ではないのです。あなたは、変わるのです。変わらない神を示す聖書は、あなたが変わることを、確かに保証しているのです。