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スペシャル・ニュース (雅歌8:6-7, ルカ16:1-13)

◆虎に翼

NHK朝の連続小説「虎に翼」は、好評のうちに、9月に放送終了しました。女性裁判官となった三淵嘉子(みぶちよしこ)さんの生涯をモデルに、寅子(ともこ)という名の主人公を中心に、法曹の世界を描きました。朝ドラにしては堅い前触れがあったと思いましたが、始まったら視聴者はどんどん惹きこまれていったのです。
 
ご覧にならなかった方には分かりにくいのですが、ストーリーをすべて紹介する暇はないので、ポイントにだけ触れましょう。このドラマで、恐らく誰もが、背筋に冷たいものが走ったであろうシーンがありました。美佐江という高校生のキャラクターが登場したときのことです。成績優秀で東大を目指しているのですが、「赤い腕飾り」を周囲の人に配り、「特別な存在」と思いこませていました。このとき、窃盗や売春などに手を染めたせていた疑いが生まれ、主人公の寅子と出会うのです。
 
ぞっとする気配が襲いました。サスペンスまがいの展開があるのですが、その後、寅子に問いかけます。「どうして……人を殺しちゃいけないのか」と。寅子なりに答えるのですが、納得する様子ではありませんでした。
 
どうして人を殺してはいけないのか。この問いは、一定の年齢以上の方は、おぞましい事件と共に思い出すのではないでしょうか。もう四半世紀前のことです。ある少年の事件が、世の大人に突きつけたようなことになりました。大人たちは、社会は、この問いにたじたじとなったのです。
 
美佐江は、「赤い腕飾り」を「特別な存在」の人々にプレゼントしていました。寅子もそれを受け取っていたために、戦慄を覚えていたのです。いったい「特別」とは何だったのでしょうか。物語はそれを明確にしたとは言えませんが、最終週に、美佐江の娘の美雪と出会うことで、少し明らかになります。美雪の祖母、つまり美佐江の母の佐江子が登場します。
 
 佐江子「美佐江は、死にました。美雪が3歳になってすぐ、車に轢かれて。ここ(赤い栞の手帳)に、美佐江が最期に残した言葉が、書かれているんです」
 寅子はページをめくり、絶句。「美雪 愛してあげられなくて ごめんね」。栞と思われたのは“赤い腕飾り”――。
「私はたしかに特別だった。私が望めば全てが手に入った。全てが思い通りになった。盗みも体を売らせることもできた。(約10秒のブラックアウト)けどこの東京で私はただの女にすぎず、掌で転がすはずが、知らぬ間に転がされていた」
「次々にわく予期せぬことに翻弄された。身籠れば特別な何かになれるかと期待したが無駄だった。私の中に辛うじて『特別な私』が消えぬうちに消えるしかない」
 
「特別な私」は、本当にあったのでしょうか。最初からなかったのでしょうか。特別というものを、ただ幻のように求めていただけだとすると、美佐江は、生きていることの意味を、ただもがいて探していただけなのでしょうか。私たちは、どう受け止めたらよいのでしょうか。
 
それは問いかけであり、ここで出すべき答えなどではありません。「生まれてこなかったほうがよかったのではないか」という問いは、近年大きな哲学的な問いとなっています。一方で、生きている意味を見出すための「法」の世界を物語で描いた本作品は、多くの人の心を掴みました。それは、前作「ブギウギ」の描いた「義理と人情」というようなテーマではなく、重いテーマとなりましたが、ドラマを見るひとは問いを受け止めていたのだと思います。原爆の責任、女性の権利、それらを史実を基に描きました。
 
憲法14条「すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分または門地により、政治的、経済的、社会的関係において、差別されない」
 
ドラマは第1話の冒頭でこの憲法14乗を流しました。そして最後までそのテーマを貫いていました。立派な作品だったと思います。
 

◆日本語の「愛」

さて、「特別」という概念は、アニメでも、時折キーワードになることがあります。「君は特別な存在だ」というような感じで使うこともあり、何か唯一の関係を指し示すことだと思います。それは異性間とは限りません。同性間のものもあります。以前は、ただ「好き」という表現で表されていたものでしょうが、単なる恋愛ともまた違う関係として、「特別」という言葉が使われているのかもしれません。それは一種の進展なのだろう、とも感じます。
 
そう考えると、またどうしても気にせざるをえないことがあります。私にとっての神、という問題です。いまはあなたに問いましょう。あなたにとって、神は特別ですか。
 
「虎に翼」の美佐江は、自分が特別でありたいために、相手と特別な関係を結ぼうとしていました。そのときの鬼気迫る迫り方に、私は「愛」を感じました。「愛」といっても、聖書やキリスト教の「愛」ではありません。聖書が日本に入る前に、日本で使われていた「愛」という言葉です。それは仏教を背景にすると、よくないものでした。「執着」にも似た、自分の思いを押し通そうとする執念に似合う言葉でした。本来「愛」という日本語は、そういうものを意味したのであり、当初聖書のそれを「愛」と訳すことには、問題があったのです。しかしその後、キリスト教が知られてゆくにつれ、いまや「愛」は美しいもの、自分を捨てる尊いもの、とさえ見なされるようになりました。
 
特別な人。ときにそれは恋しい人のことです。あるいは家族であったり、パートナーであったりするでしょう。唯一無二という言葉も、若い人たちにはよく理解されています。特別な友情というものもあるでしょうし、師弟関係も特別であるかもしれません。
 
あなたは自分にとって特別でいてくれ。この要求は、かなり自分勝手なものかもしれません。むしろ、自分が相手から特別な存在であるように望みはしても、そうなるように自ら努力するほうが健全であるかもしれません。
 
先月、「マッチングアプリ」について記したときに、そうしたことについての考察を述べました。自分の理想の人を探すのは結構ですが、相手からも自分が理想でなければマッチングしたとは言えないことに、気づくことが先だろう、というものです。
 
聖書には、このように強く求める「愛」は似合わないかもしれません。自分を捨てる「アガペー」というギリシア語の「愛」がキリスト教の愛だと呼ばれます。しかし、旧約聖書にある「雅歌」という巻は、ドキドキするほど強い愛であり、情熱に溢れる文章です。キリスト教であまり表立って取り上げられることがないのが残念ですが、犠牲の愛という建前にはそぐわないからかもしれません。その雅歌から、一箇所だけですが、今日聞いておくことにしましょう。雅歌8章からです。
 
6:印章のように、私をあなたの心に/印章のように、あなたの腕に押し付けてください。/愛は死のように強く、熱情は陰府のように激しい。/愛の炎は熱く燃え盛る炎。
7:大水も愛を消し去ることはできません。/洪水もそれを押し流すことはありません。/愛を手に入れるために、家の財産をすべて/差し出す者がいたとしても/蔑まれるだけでしょう。
 
このくらい、神を愛することができたら、どんなにステキでしょう。そう思いませんか。
 

◆神は公平であってはならない

ところで、ある方がおよそこんな内容のことを書いているのを見て、私は心がズキリとしたことがありました。それは、「神は公平であってはならない」と、多くのクリスチャンが考えている、というものでした。
 
「神は公平であってはならない」と考えている? 凡そクリスチャンにあるまじき冒涜のように思いましたか。この指摘に肯く人は、繊細な信仰心をもち、神との交わりの中に真摯に生きている人だろうと思います。何か意味があるのだとすれば、まるで逆説のようでもありますが、私は逆説だとは思いません。極めて当たり前のことだろうと思うのです。
 
いやいや、神は公平なお方ですよ。にこにこ語られる方は、それはそれで幸せです。純朴な信仰をお持ちなのかもしれません。でも、聖書をよく知る人は、恐れ戦きませんか。旧約聖書の標準からすれば、自分は神の前に敵であり、真っ先に裁かれるような者である、と思いませんか。それとも、自分は聖人君子であり、神の言葉に忠実に生きている、立派なクリスチャンです、と言い切ることができるのでしょうか。天国に行くならまず自分のような人間だね、と胸を張るのでしょうか。
 
福音書を見る限り、ファリサイ派などの人々は、そう考えていたかのようにも見えます。でも、真底そう考えていたのなら、イエスの許に、永遠の命を得るために質問に来るようなことはないでしょう。姦淫の女を前にして、「あなたがたの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」(ヨハネ8:7)とイエスに言われたとき、男たちが誰も本当には投げなかったのは何故でしょうか。結論は一つです。
 
パウロその他の手紙を改めて読んでみましょう。そこに並べられた罪の行列は、あなたの心に響かないでしょうか。あの男たちの心にも、恐らく響いたように。中には、旧約聖書の裁きの神から、新約聖書では愛の神になったのだ、と安心する人がいるかもしれません。しかし、イエス・キリストがその罪を贖ったのだ、と開き直ったとしても、自分のくだらなさに、脚が震える気がしませんか。
 
クリスチャンは、誠実な信仰をもち、自分自身を見つめ、神を見上げるならば、自分は羊ではなく山羊の側に入る、という判断をしたことがあるはずです。そこへきて、神が来るその日に、そのような者を裁く、という聖書に幾度となく登場する言葉を信じるならば、自分はもう逃れられない、とすら思うのではないでしょうか。
 
神が、聖書のままに、冷徹に、公平に裁きを成し遂げたら、たまらない。どうか神よ、私だけは、公平に扱わないでください。神が公平であったら困ります。そういう思いは、とても真実味のある言葉だと思うのです。
 
「私は罪人です。ダメな人間です」と私たちは口にします。「イエス・キリストがその罪を赦し、贖ってくださったから私は救われた」と、私たちは信仰を告白します。しかしパウロは、だから私たちは罪を犯そう、などと考えるのは馬鹿げている、と言いました。でも、私たちは教会の礼拝で毎週祈っているではありませんか。「先週も罪を犯しました」などと、「罪の告白」がプログラムにあるでしょう。
 
キリストを信じて罪を犯すとどうしようもない、というようなことも、聖書の中には書いてあります。キリスト者は、神が何もかも公平にすることを前提に腰を上げたら、実はたまったものではないのです。どうか依怙贔屓してください、という意味の祈りを、私たちは毎週繰り返しているようなものであるのかもしれません。
 

◆特別扱い

もちろん、クリスチャンだから何々しなければならない、という考え方をするところに問題がある、とも言えます。理想的なクリスチャンをイメージすると、自分はダメダメだからきっと裁かれる、というふうに怯える気持ちが、どこかに隠れているのは、クリスチャンの「あるある」でしょう。
 
でもそれを深刻に表に出すと、「なにそれ?」と言われそうな気がします。さしあたり、敬虔なクリスチャンの顔をしておくほうが無難です。それでいて、ファリサイ派の人のように自分を誇り他者を見下すような真似はできませんから、何か褒められでもしたなら、「いえいえ、不信仰なもので」などと苦笑いをするのが、日常化することがあります。
 
他人から指摘されたくないものだから、自分のほうから予防線を張っておくのは、よくあることですね。自らのことを悪く口にしておけば、傲慢な人間だとは思わせません。それはまた、他人から事実を指摘されることに対する予防線にもなります。「私は不信仰ですから」と言っておけば、「そんなことありませんよ」と相手は返すしかありません。
 
それでいて、「ほんと、あなたは不信仰ですね」などと返されようものなら、今度はむかつくわけです。「謙遜というものが分からないのか」と、返した人を、厚かましいとか、付き合いにくい人だとか、悪い評価を下すわけです。
 
他人からは言われたくないのです。でも、自分では分かっている。聖書を読んでいるから、分かるのです。自分のような者はやばいのではないか、と案じている。それを「まあいいか」と誤魔化す人が、いないわけではありません。ただ、誤魔化せない場合、その人はむしろ誠実であると考えます。クリスチャンとして、逃げ場がないことが分かっているのです。
 
その時には、次の策を練りましょう。神にお願いするのです。どうか私を裁かないでください。私はこんなにダメダメなのですが、神よお願いします。そう、クリスチャンはこうしなければならない、という思い込みがあるから、それに見合わない自分は、神の国に相応しくない、と分かっているのです。
 
神よ、どうか私をよろしくお願いします。クリスチャンとして失格なのですが、どうか特別扱いをしてください。これにはわけがありまして……などと言い訳も、心の隅に用意しながら。
 

◆神の特別

勝手なものですが、神に自分を特別扱いをしてほしい、というのが本音です。いえ、本音だとも気づいていないのかもしれません。けれども、そもそも神は、本質的に、特別扱いをする方ではなかったでしょうか。イスラエルをどうして偏愛したのでしょう。不思議極まりありません。他方、あいにく神は不公平なことはなさいません。聖書には、神が「公正」を愛することが述べられています。「公正」な神の故に、イスラエルの指導者は公正であるべきだ、と預言者は盛んに言っています。
 
ここで、二つの道を仮想してみます。「神の裁きは公平である」ということを前提に、考察してみます。
 
まず、同じAということをした二人がいるとします。それでいて一人は死刑、もう一人は無罪。そういうことを法が認めたら、公平ではなくなってしまうでしょう。神の法は公平であるに違いありません。
 
これに対して、とんでもない道が考えられます。罪人が罪を犯した。その罪が、無罪になったのです。その罪をイエスが全部背負って赦しました。イエスを信じる者については、その罪が赦されたのです。いえ、本当はすべての人の罪が赦されたとすべきなのかもしれませんが、信じる人だけが神の国に入るようなことになる、とでも言ったほうが適切でしょうか。信じる人、それがキリスト者です。キリスト者とは、イエスを通じて、特別扱いをされた者のことをいうのです。
 
イエス・キリストのこの特別扱いは、ある種の不公平となります。しかし、別の見方をするならば、これが神の論理による「公平」というものであるのかもしれません。つまり「公平」の語の概念が異なるのです。その「公平」が、いまや「特別」をつくったことになります。信じる者の罪は赦され、神の子と呼ばれるのです。
 
この「特別」に与ったら、あなたも誰かを特別扱いをせよ。そんなふうに聞こえることはないでしょうか。そのような声を聴いたら、私はふと、ルカ伝の16章を思い出しました。それは、「金に執着するファリサイ派の人々」がイエスを嘲笑ったというお話でした。イエスが話したのは、表向き、非常に金に執着したかのようにも見えるたとえ話でした。
 
ざっと振り返ると、その話はこういうものでした。金持ちがいて、管理人がいた。管理人は、主人の財産を無駄遣いしていたとの告げ口が主人の耳に入る。主人は会計報告を出すように、管理人に求める。管理はもう任せられないのだという。管理人は、首になった後の就職先を探そうとする。そこで、主人に借金のある者を呼び集める。それぞれに借用書を出させ、額を安く偽造します。
 
主人はこれを知ると、「この不正な管理人の賢いやり方を褒めた」のでした。「自分の仲間に対して賢く振る舞っている」という点では、この世の子らは実に巧みだ、というのです。この事案についてのイエスのコメントは、「不正の富で友達を作りなさい。そうすれば、富がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる」というものでした。それは、小さなことに忠実であったからだ、という根拠をもつのです。
 

◆不正な管理人

ルカ伝の十六章は難しい――確か、三浦綾子さんの俳句に、そういうのがあったと記憶しています。「不正な管理人のたとえ」とも呼ばれるこの話は、理解に苦しみます。この世での犯罪を奨励するような話です。詐欺であり、私文書偽造の罪にもあたるでしょう。とにかく商道徳にも悖る悪行です。それをイエスは褒めたことになります。昔から聖書の与える難問です。
 
管理人というのは、もしかすると、奴隷の立場であるかもしれません。しかし奴隷という立場は、私たちが勝手にイメージするほどに悲惨なものではありません。家の経済を管理する担当者もざらにいたわけです。このたとえの管理人は、確かに法的に拙いことをしました。こんなことがまかり通っては、社会は運営できません。処罰は必定です。
 
こういうたとえでの「主人」とは、正に「主」であって、神を意味することが多いのですが、必ずしもいま神による処遇として捉えないでおきましょう。管理人が主人から受けようとしている処罰は、公平でしょうか。むしろ逮捕ではなく内々に退職するだけで済むとなると、恩恵ある処罰であるかもしれません。特別な猶予のようにも見えます。その後の対応の様子にしてみても、神の裁きというよりは、地上での罪そのものを見つめているような気がしてなりません。
 
管理人は、今後の生活の生計のために、「家に迎えてくれる人」をつくろうとしました。あるいはまた、「友をつくろうとした」と言ってもよいだろうと思います。友をつくるため、私文書偽造の罪まで犯しました。主人には簡単にばれるようなことをしたのですから、いまに見つかってもっと酷い目に遭うとは考えなかったのでしょうか。しかしこれはたとえです。何かを際立たせるために例示した物語です。ポイントになる焦点の他は、想像しづらい部分もあるでしょう。
 
偽造をした。それは、友をつくるためにではありますが、特別扱いをしたような意味になります。なんとか私を匿ってくれ。特別に、借金を割り引くから。あなたは特別にするよ。これは、全額免除と言ったのではありませんでした。借金をチャラにしたのではなく、割り引いただけでした。管理人は、さすがに全額とはいかなかったようですが、何故なのか疑問が残ります。形だけの不正であれば、なんとかごまかせるとでも考えたのでしょうか。なんとかして友をつくりたかったのでしょうが、どことなく中途半端な恩義でありました。
 
このように、なんだか中途半端な様子も含めて、このたとえは非常に分かりにくいものとなっています。もちろん、不正を主人が褒めるというところが、私たちは納得がいきません。夕方にやっと働き始めた労働者が、朝から働いている労働者よりも先に日当をもらい、しかも額が皆同じであった、というたとえもイエスは話したことがあります。これも現代の社会正義から照らし合わせると、納得のいかない話です。しかし、このたとえについては、あまり「分からない」と頭を抱え込むキリスト者はいません。いつ救われても報いがある、ということで、むしろ神は恵み深い方だ、と喜んでキリスト者は聞いています。だのに、この不正な管理人の話には、首を捻るのです。
 

◆死に物狂いで

借りるということ、負債があるということ、これは新約聖書の用いる語からすれば、罪ということを示します。罪は負債である、という認識が聖書にはあると思います。ルカ伝の主の祈りでは「罪」というところで、マタイ伝においては「負い目」と訳されていることさえあるのです。「負い目」とは「負債」のことです。
 
どうせ借りた人たちは、主人から借りていた分があったといいます。主人に負債があるわけですから、これは神に対して「罪」があるということを重ねて見る余地のある表現だと思います。人は皆、神から罪を突きつけられているのであり、罪から逃れられる者は誰もいません。
 
この罪、すなわち負債を、自分自身の力で勝手にゼロにすることはできません。そこで、この管理人は、人々に呼びかけて集め、あなたの負債を割り引こう、という提言をします。この管理人さえも、負債をゼロにすることはできなかったのです。それができるのは、イエス・キリストを通して業をなす神だけです。
 
私はふと、この管理人の立場に身を置いてみました。ヤバいことをしてお咎めを受けようとしています。このとき、他者のためというよりも自分のためとはいえ、他人の負債を軽くしようと動き始めました。他人の罪を軽くすることができる、と話を持ちかけたのです。さすがに他人の罪をゼロにすることは、私にはできません。減額するのが、人間としての私にできる精一杯の力です。
 
しかし、少しでも「いい話」をもちかけます。いわば、福音を知らせるのです。私が福音を知らせただけでは、その人の罪はゼロにはなりません。しかし、そこへ至るきっかけをもたらすことはできます。あとはその人がキリストの救いを信じれば、ゼロへの道が敷かれます。そう、私は、出会ったあなたがたを特別扱いするのです。特別な「いい話」を知らせるのです。
 
――神学者には、鼻で嗤われるような聖書の読み方です。私はここで、奇妙な解釈をしました。恥ずかしい幼稚な思い込みに過ぎないのだと思います。それでも、私にいま射した光に対しては、無闇に否みたくないと考えます。ひとつその道を歩いてみるだけの価値はあるのではないでしょうか。もちろん、誰かに、このように読めと強要するつもりはありません。ただ私に光が射したのです。幻かもしれません。木洩れ陽を眩しく感じただけかもしれません。それでもいいのです。
 
神だって、私たちを「死に物狂い」で愛してくださったではありませんか。「死のように強く」愛してくださったではありませんか。「燃え盛る炎」で私を救ってくださいました。ダメダメな私ですが、管理人のように、「いい話」をあちこちに言いふらします。あなたもこの「いい話」に乗りませんか。
 
借金・負債・負い目、これらを表すためにも、聖書は「罪」という言葉を使いました。それらをチャラにすることは、私にはできません。罪を赦す権威はありません。ただ、罪を赦す権威を有する方を知っています。イエス・キリストです。この方が命を捨てて愛してくださったことを信じるならば、罪が赦されるのだ、と言いふらそうではありませんか。これは、あなたを特別扱いする、特別なニュースである、と前置きをして。

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