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新約の光の中で開く

アモス5:4-8 
 
主を求めよ、そして生きよ。そうすれば生きる、というふうにも受け取れます。羊飼いという素性と、震災の2年前という情報が付せられたアモスの預言は、歴史の中に刻まれた一つの宝石と言えるでしょう。人々がその中に確かに生活していました。生活していたのに、そのままでは生きていたとは言えない、とアモスが指摘しているかのようです。
 
主を求めることなしには、生きていることにはならなかったのです。私を求めよ、とイスラエルの家に向かって呼びかける声は、甘い誘いをかけているのではありません。ベテルを、ギルガルを、ベエル・シェバへ近寄るなと釘を刺します。偶像崇拝から離れよ、と言っているに等しいものです。忌まわしい偶像へは、興味本位でも近寄らないことです。
 
さらに、主を求めるのでなければ、主の火がおまえたちを焼き尽くすのだ、と脅しています。おまえたちは公正と正義を投げ棄てている、と非難するフレーズもあります。ヨブ記において主の創造の力を明らかにするかのように、すばるやオリオンと大自然への関与をもちらつかせて、主の大いなる姿を示すからには、とアモスは力を込めて言います。
 
主の権威の絶大なことを、さあ目の当たりにするのです。でも、神のほかの被造物に目を奪われるのはよろしくありません。この主にこそ注目させる目的があるとすべきです。主をこそ求めよ。生きるのだ。こうやっておまえたちは命を与えられて生きるのだ。表向きの形だけを求めてみても、それだけで命となるのではないのです。
 
口先だけのものが、どんなに無力であったか、新約の徒は噛みしめていると思います。私たちは、新約の光の中で、アモス書を見ています。それはアモスも思わなかった解釈をもたらしますが、キリストを経たからには、それは恵みとなります。何を意図している言葉なのか、何に気をつけて聞くべきであるか、ひとつの答えが与えられるからです。

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