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教会は敷居が高い?

以前SNSで、キリスト教関係の事業のPRがあった。「教会は敷居が高いと思われていますが……」のような言い回し。個人が言葉遣いを誤っていても別にそう干渉はしないが、事業となると、言葉の間違いは信頼を失い利益に差し支えるかもしれない。ちょっとお節介をした。幸い、ご理解を戴いた。
 
ご説明の必要はないだろうが、いまなお誤って用いられることがあるから念のため記しておくと、「敷居が高い」という言葉は、「不義理や面目のないことがあり、その人の家へ行きにくい」という意味をもっている。AがBに対して悪いことをした意識をもっているために、Bの家へ行きづらい様子を表している。
 
従って、「教会は敷居が高い」という言い方を、教会側が使うことは失礼千万なのである。おまえたちは罪深いから教会に来にくいだろう、と言っているようなものだからである。
 
2011年のNHKの調査では、「敷居が高い」を「高級過ぎたり,上品過ぎたりして,入りにくい」のように理解している方が人数が多くなるのは、30代以下であったという。この後10年を経た今、それはそのまま40代に移行しているのだろうか。
 
言葉は生き物だから、元の意味に固執して、それだけが正しいと言うのはおかしい。コオロギとキリギリスが平安時代以前は今と逆だったという研究があるが、だから千年前の使い方に戻れ、というわけにはいかないだろう。そんな声が必ず出てくる。多くの人が使うならぱ、その言葉は認められて行くべきだ、というのである。それではまるで、悪貨は良貨を駆逐するということのようであるが、だがその意見には一つ重大な誤りが含まれている。言葉は生き物ではない。喩えとして使っているにしても、言霊信仰でもお持ちなら使いたくなるかもしれないが、そういう信仰をもたない人にも適用しようとするのは適切でない。使う人間の意識や社会通念などを問題にするなら、それでよいのだが、言葉を生き物にしてしまうことはできない。
 
ところで「敷居が高い」というのは、具体的に、建物のどういう姿を示しているのだろう。一般に「敷居は、畳などの高さと同じになっているが、玄関の引き戸の敷居は、地面より高くなっている。また、畳の座敷と板の間の廊下との間の敷居は、段差になる。」(『「しきり」の文化論』柏木博/講談社現代新書)のだという。それをまたぎにくいという訳である。
 
敷居は、この本のテーマである「しきり」を形成している。そこに段差があれば、わずかであっても、しきりを意味するのだそうだ。日本の家屋の作りは元来、柱はあっても壁はあまりなかった。屏風や衝立ひとつで、向こうとこちらとは隔てられたことになっていたのだ。だが当然音は漏れる。それでも、そうしたしきりで区切られた向こう側から聞こえてきた事柄であっても、聞かなかったことにするという、暗黙の了解があったそうだ。これは、現代の私たちにも理解できないことではないと思う。
 
さらに、この敷居は、幽霊が歩くところだと考えられており、敷居を枕にすると幽霊に踏まれるという表現があるのはそのためだそうだ。敷居は、「結界」と考えられているのだ。
 
結界。これは若い人や子どもたちには案外よく知られている。マンガやアニメではおなじみだからだ。結界とは、仏教や神道関係で用いられる語のようだが、不浄や災いを招かないための空間の区切りである。もっと一般的な言い方にすると、それは宗教的なしきりということになる。
 
教会にはどなたも気軽に来てください。そんなことを教会のほうでは言いたいのだと思う。敷居が高いのではなく、敬遠されているとでも言えばよいのだろうが、日本人一般にとり教会は、あまり近づきたくない存在であろうと想像しているからだ。私もかつて、そこに一度足を踏み入れてしまったら、強い勧誘に遭い、面倒なことになりはしないかという恐れが確かにあった。別の新興宗教にしつこく勧誘されたことがあったからでもあるが、キリスト教会も、そのドアの内側はどこか別世界という印象があった。
 
しかし聖書を見る限り、教会なり旧約聖書の神殿なり、それは特別に区切られた場所であるということになっている。そもそもそのように区切られたところを指すのが「聖」という言葉なのだ。イスラエルの神殿における「聖所」という考え方は厳格であったし、「至聖所」というさらにその中心にある場所は、特別な人でなければ足を踏み入れてはならないところであった。聖なるものに触れたことで命を落とすという記事もある。そのような例は、古今東西、宗教的な世界においてはあたりまえのことでもあるだろう。
 
従って、教会が聖なる場所であるということは、間違ったことではない。また、人と神との間にもしきりがあるのは当然である。人は、特に近代人は、と言っておくが、自分を安易に神にしやすい。それは自分でも気づきにくいことであるから、なおさら警戒しなければならない。それでも、神は人に呼びかける。ここに来よ、と。けれどもまさに人からすれば、神に近づくなど「敷居が高い」のであって、できることではない。神と人との間には、歴然としたしきりがあるのだ。
 
だが、そのしきりを心から知る者には、神の側から、しきりが無効になる出来事をもたらしてくれた。しきりを縦に貫く杭をもつ十字架により、イエス・キリストが、結界を通過する道を備えたのである。否、神がそれを備えた、というほうが適切か。

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