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道半ば

11章。黙示録からの連続説教もちょうど真ん中辺りまで来た。ユダヤ文学だと中央はクライマックスとして注目すべき内容が置かれることがよくあるが、黙示録はたぶん、最後の天の都を最高峰に置きたいものだ。しかし、この中盤は衝撃的ではある。ヨハネは天使からの巻物を食べた。ここまでは、災いも描かれるが、どちらかというと抽象的な描かれ方だったように思える。しかしここからは、かなり具体的なイメージが表に出てくるように感じる。
 
場面は、二人の証人である。これが誰かなどと論じている暇があったら、私たちは自分の立っているところと自分のしていることに、気をつけたほうがよいのではないかと思う。その点には後にまた触れる。この二人の証人は、いわば殉教の死に至る。但し、それは42か月の異邦人、即ちよそ者の狼藉と、証人たちの1260日の間の活動の後の事件である。二人は殺される。底なしの淵から一匹の獣が現れたのだ。しかし、三日半の後、二人は復活する。これが、第二の災いであるという。
 
殉教と呼ぶことが適切であるかどうかは分からないが、日本でも迫害のために多くの「キリシタン」が殺された。秀吉が小心だったのかたんに短気だったのか知らないが、厳しい弾圧をしたが、それに限らず、命懸けで信仰を貫いた日本人が少なからずいたということは、私たちから見ても驚異である。日本人には福音が分からない、などと高みに立って論じていることの愚かさを痛感する。
 
当時のキリシタンは、推定ではあるが、間違いなく現在のクリスチャンよりも割合が大きい。いま百万人などとよくいうが、実質それの半分も存在するのかどうか、分からないとすれば、それに匹敵するくらいのキリシタンがいた、とも考えられる。
 
芥川龍之介が、この殉教をモチーフに、いくつかの傑作短篇を書いている。芥川も、それを書きながら何かを感じていたのであろう。芥川の作品は、必ずしもすべてが輝いているわけではないが、キリシタン物は私は好きだ。加賀乙彦も、この殉教を舞台に本を出している。この人についても語り始めると私は長いが、いまは控えておく。
 
説教者は、同時に、エゼキエル書の枯れた骨の幻の箇所をも開いた。骨がつながり筋肉が着き、皮膚で覆われて神の息、つまり命なる霊を吹き込まれると、生きるようになる。この神の業にどうしても目が向かうが、そもそもその枯れた骨とは何だったのか、私たちは考えるべきであろう。その骨と、私たちとの関係である。つまり、私たちこそ、その骨ではないのか、という問いかけの必要性である。
 
また、旧約聖書からまた別に、ゼカリヤ書も呼び出された。ゼカリヤ書も、なかなかの幻想的な書である。そこに「二本のオリーブの木」(4章)が登場する場面がある。黙示録の二人の証人は、こことつながりがあると目されている。頭にあったのは事実だろうと思う。そして、だからこそ「二人」なのだろう。
 
新約聖書から理解すると、この二人はモーセとエリヤとが相応しいように見受けられる。事実変貌山でイエスは、モーセとエリヤと話をしたという記述がある。だが、説教者は言う。この二人のような証人を通じて、神の言葉が私たちに現に与えられているというところに注目しようではないか、と。
 
そう、「証人」とはまさに「殉教者」と、言葉としては同じものなのである。二人の死は、神の霊によって生きるための、一種の通過点にすらなり得る。私たちもまた、証人となるべきであるのならば、苦難はあり得る。そして、通過点となる。
 
説教者はまた、福音が地上の人々を苦しめた点にも着目させた。二人の証人もまた、憎まれるからである。それも信仰者の定めである、という勢いであった。「口には蜜、腹には苦さ」というように、真実は心の底には苦いものであろう。教会は、福音を貫く。それは世の理解を容易には得られまい。むしろ、人々に反感を抱かせ、また福音を真摯に捉えた人については、その人を苦しめることになるだろう。
 
その通りだ。だが、これは強調することで、厄介な問題が起こる。人々を言いくるめて金を巻き上げる政治組織の手法が、宗教を手段としている場合、それを非難されたときに、同じような論理を振りかざすのだ。我らの真実を、世の中は理解することができない。そのように部下に演説し、自分たちこそ被害者だ、と思いこませるのである。部下たちはインターネットを駆使し、恰も世論が宗教弾圧をしているかのように宣伝をする。信教の自由が侵されようとしている、と叫ぶ。その波に、今度はキリスト教会の一部も同調すら始める。確かに政府は信教の自由を押しつぶすための前例となるからけしからん、などと。
 
キリスト教会は、この国では護られている側にある。どんなに安穏と教会活動が続けられているか、気づいていないかのようである。それでいて、説教壇で、政府の悪口を言えば、正義を主張しているかのように勘違いし、悪を指摘する者は善である、というように見せようとしていることが、決してないわけではないのである。それこそ、獣に支配されているようなことだ、と私は思う。福音を、自分の正しさを証拠立てるために用い始めると、その支配に陥る初めであることに、私たちはもっと霊を研ぎ澄ませている必要がある。
 
それでもなお、福音は福音である。己れの罪を嘆き、神に栄光を帰すことの中にいる、そういう礼拝を続ける者でありたい。そのためにも、ここで登場する二人の証人をもう少し見つめたい。二人の主がイエス・キリストであることは、ここに明らかに書かれている。二人を害する人間はいないのだ。人間には負けはしないのだ。ただ、獣には敗北した。すべてが勝利というわけにはゆかない。それでも、それはそれでいい。
 
この二人の証人の殺害と復活を、イエス・キリストそのものに見立てることもできるかもしれないが、そうした解釈は留保しておくに限る。但し、42か月の異邦人の暴力、ないし証人の預言の1260日という期間があったと場面がここにあった。それは、完全数7に関して言えば、7年の半分の時間を表す。だから、説教者は、これはまだ結末ではない、と強調した。それがこの説教の主眼であったと思う。
 
その苦難も、暗い時代も、それですべてが終わるわけではない。こうした気味悪い描写に怯える必要もないのであって、主はその後半で祝福へと導くことであろう。実際、二人の証人もここで蘇り、天に昇った。あの枯れた骨も起き上がった。命の息が吹き込まれたからだ。この幻は、私たち信ずる者たちのうちに、同じように働くことであろう。
 
慰めの言葉がここにある。平和を実現する、というのは痛みを伴うことであろう。痛めつけられるに違いない。迫害は覚悟すべきである。しかし、それは中途までである。半ばまでがせいぜいなのである。
 
そう。この黙示録も、この11章で分量的にも半ばとなった。筆者ヨハネが、それを仕掛けたのだろうと私は思っている。道半ば、まだまだこれからである。諦めてはならない。怯んではならない。キリストと出会い、キリストに救われた者たちには、主が共にいてくださるのである。

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