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教えたり教えられたり (イザヤ43:22-25, ルカ1:46-55)

◆赦しは教えられるか

キリスト教にとり、「ゆるし」というのは大きな課題だと言えます。今日はその「ゆるし」をテーマに、しばし聖書から開かれる扉を待ち望みたいと願います。私に与えられた観点は、「ゆるしのためには、何か教育が必要な面があるのではないか」、というものです。これをひとつの軸としてみたいと考えています。
 
さて、「どうかゆるしてください」と、昔話にはよくありそうなセリフも、めっきり聞くことがなくなりました。まして、泣きながら謝るなど、現実感があまりにも薄い場面と言えそうです。
 
子どもが小さかったころ、それを言わせるよう教えていたと思います。別に、親が常に正しいという意味ではありません。なんでも子どもの言うことを受け容れるだけの親よりも、ひとに謝るということがどんなことか、教える義務がある、と考えたのです。子どもというものが本来的に、自発的にそれを覚えていくものなのかどうか、私は知らなかったのです。
 
ただ、何かしら教えるべきだ、というふうには考えました。「ごめんなさい」と言いなさい。なんと冷たい言葉であることか。でも、心を鬼にしてでも、それにはこだわりました。そうさせておいて、後からこっそり親自身としては、「言い過ぎただろうか」と悩むこともありました。「本当は親のほうが悪かったんだけどね……」などと、自己弁護のようなことを密かに吐くこともありました。
 
それでも、強情に育つ子もいます。私も子どもの頃、きつく叱られたことがありましたが、自分がどうだったか憶えているとは言えません。しかし逆に子育てした経験からすれば、却って、そんなことは言わない、言いなりになるものか、と、まるで親の心の底を見抜いたような態度を取られることもあるかと思います。こちらが言えば言うほど、黙りこくるというのは、子どもなりのせめてもの抵抗だったのかもしれません。
 
泣きながら、「ごめんなさい、もうしーせん」と言うことで、ゆるしてもらえる。辛いけれど、教えなければ分からないことがある、というように考えてきました。厳しかったかなぁ、といまさらながら思いますけれども、せいぜいあのとき、親がすっかり感情的になってしまっていなかったつもりだ、と自分では言い訳をする気持ちです。
 

◆子どもたちに対して

「神さまに、ごめんなさい、と言うのですよ」というのが、教会学校でのひとつの重要なテーマです。「そうしたら、神さまは赦してくださいます」などというように。とにかく教会でも、やっぱり「ごめんなさい」を教えるわけです。大人の信徒が、悔い改めることを日常とし、それを率先してやっている教会は、すんなり教えられるかと思います。また、教会学校を担当していると、教えつつ、「ああ、そうなんだ」と教えられ、自らを省みる機会が与えられる、というのも本当です。だから、教会学校の教師になるというのは、よいものです。もちろんそのような図式は、一般の教師職についても言えることではあると思うのですけれど。子どもに、逆に教えられるという経験は、きっと多くの教職の方がお持ちだろうと思います。
 
「ごめんなさい」は、ただ「悪いことをした」という意味でなされるのが通例かもしれません。が、教会学校では、そこに「罪」という言葉を絡ませてきます。いえ、教会は正にこの「罪」という問題を、世に問うものであるべきだろうと思います。
 
以前は、教会は「罪」ばかり言うから嫌だ、という声が聞かれました。教会に行くと、「おまえは罪人だ」と告げられる、オレはそこまで悪いことをしているわけではない、だから嫌だ、というように思う人がいました。そうやって、教会に行かなくなるわけです。
 
その頃は、学校でも厳しい教え方が当たり前であったのではないかと思います。私よりもっと昔は、いまでいう「体罰」が当然行われていた時代もあったことでしょう。いえ、それは戦前戦中のことなのでしょうか。そういう頃だと、教会の説教で「罪がある」と言うことくらいは、大してショックなことでもなかった可能性があります。
 
もちろん、言葉の暴力が良いことだ、と極論しているわけではありません。いまの教育現場は、実に気を使っています。親からのクレームを恐れるのは、もうだいぶ前からのことでしょう。人権や法的な問題としても、言葉の使い方ひとつで、すぐに新聞沙汰になり、ワイドショーのネタにされてしまいます。
 
学習塾でもそうです。こちらはむしろ、学校のたおやかな指導を生ぬるいと思う保護者もいて、びしびし叱ってください、という注文が来ることが多いものです。もちろん、それを真に受けてしまうとまた問題なのですが、多少厳しく現実を指摘したり、生活指導をしたりすることもあります。こちらはお客様であり、その要望に応えることが求められ、また他のお客様の迷惑になることは、放置することができないわけです。それでも、顧客を激しく叱ることのできる職業というのも、そう沢山あるわけではないでしょう。
 
しかしいまや、塾にも決定的にまずい犯罪者が潜む時代となっており、社会問題化しています。ストーカーとして逮捕されるようなことは以前からありましたが、いまは子どもの心を傷つけ、ネットを利用するという、取り返しのつかない事件となっていて、さらに深刻です。芸能事務所の過去の事件が大きく話題になっていますが、塾の場合は補償もすんなりといかないのではないかと懸念しています。
 
現在では、個人情報の点もさることながら、生徒への身体的接触や言葉の暴力について、強いコンプライアンスが提示されることが必要とされています。そうなると、いくら要望があっても、生徒を叱るのも憚られます。
 
でも本当に何も叱らないならば、生徒は何をしても叱られないのだ、というように、歪んだ方向へ体と心を伸ばしていかないとも限りません。教育とは、確かに難しいものです。
 

◆教会と罪

教会においても、いまは「罪」という指摘がめっきり減ってきたように見受けられます。教会が「罪」を告げなくなってきているのです。もちろん教会によるとは思われますが、大まかな傾向としては、そのように感じられてならないのです。
 
いまは教会員の平均年齢も、鰻上りになっていますが、ベテランの方々の礼拝での祈りの中で、自分の罪をしきりに口にすることが目立ちます。かつてそういう教育を教会で受けてきたのだろうとも思います。そういう信仰を身につけて、教会生活を続けてこられたのだろうと推測します。しかし、そうした教会教育を受けてきたからこそ、自分の中の罪というものを本当に知ることになった、とも理解できます。
 
作家の三浦綾子さんの信仰の中にも、そうした厳しさがありました。百年前に生まれた方です。戦争を通して、世の中の醜さと共に、自分の中の偽りや汚さを思い知らされ、献身的に愛されることを病床で体験した中で、信仰が与えられます。自分の中の罪を、徹底的に神から突きつけられたのですが、だからこそ、そこからイエス・キリストを通して立ち上がらされることを経験したのだと思います。そういう過程が、どうしても必要だったのです。
 
罪を知ること。自分の罪を認めること。それは怖いことのような気もしますが、聖書はそれこそが、実は安心できることであると告げます。罪を認めるのです。認めたら罪が却って確定し、消えないのではないか、と普通の人間は恐れるかもしれません。けれどもたとえば、本日お開きしたイザヤ書43章はこのように言っています。
 
25:私、この私は、私自身のために/あなたの背きの罪を消し去り/あなたの罪を思い起こすことはない。
 
神が、ひとの罪を消すというのです。無効にするのです。なかったことにするのです。それは、最初からなかった、ということではありません。あったのだけれども、消すのです。私がどんなに神をなじったとしても、神を疲れさせたとしても、神は罪をゆるし、消すのです。
 
22しかしヤコブよ、あなたは私を呼ばなかった。/イスラエルよ、あなたは実に私を疲れさせた。
24:あなたは私のために/銀を払って菖蒲を買うこともなく/いけにえの脂肪で私を満足させることもなかった。/かえって、あなたの罪で私に労苦させ/あなたの過ちで私を疲れさせた。
 
このように、神は、私のために苦労したことをよく憶えておいでです。それでいて、それを踏まえてなおかつ、私をゆるし、私の罪を消してくださる、と宣言していることになります。
 

◆マリアは神と向き合った

唐突ですが、ふとマリアの歌が私の心に響いてきました。よく、クリスマスを迎えるときに開かれる聖書の箇所です。けれども、クリスマス限定でしか読まない、というのはもったいないことです。宗教改革の当事者だったルターも、このマリアの歌を大いに愛し、本を著しています。しばしばこれは、「マリアの讃歌」とも呼ばれます。ルカによる福音書の1章の後半にそれは登場します。
 
46:そこで、マリアは言った。/「私の魂は主を崇め
47:私の霊は救い主である神を喜びたたえます。
 
ここから始まる、あの歌です。讃美歌にもなっていますから、教会生活を過ごしていれば、きっと心に残っていると思われます。美しい歌です。しかし、それでよいのでしょうか。特に私は男として、このマリアを、きっと外から見ています。けれども、女性の立場に少しでもなろうとすると、いたたまれない気持ちでこの歌と向き合う人が、たくさんいるように思われました。中には、聞きたくもない、というトラウマに苛まれている方もいるのではないでしょうか。心苦しいのですが、もう少しお話しさせてください。
 
現代的な解釈を、聖書そのものの言おうとしていることだ、としてはいけないと思います。しかし、受け止める私たちの環境で、考えさせられることは、あってもよいと思うのです。このマリア、神の子を授かったのだ、と白羽の矢を立てられました。それを信仰深く受け止めた、と称賛されましたが、あまりにも理不尽な宣告を受けたことは間違いありません。婚約中に、相手の男性の子ではない子どもを産むなどと、とんでもない告知です。
 
それは、目を背けたくなる暴力ではないでしょうか。奇妙な予告ではありましたが、現代感覚では性暴力です。男性への性暴力のために、いま大きな社会問題が起こっていますが、その背後には無数の、泣き寝入りしている女性がいることを忘れるわけにはゆきません。「暴力」も「乱暴」という曖昧な言葉で濁されるような雰囲気がありますが、これは「魂の殺人」にも匹敵すると言われます。マリアも、そのような仕打ちに遭うということで、心が折れるどころではなくてね魂が死んでもおかしくなかったはずです。
 
特に当時は、被害者でありながらも、死罪とされることがあました。生き延びてももちろん婚約破棄は当然で、一生日陰暮らしをしなければならなくなる事態です。ホーソーンの名作『緋文字』を見ると、近代でもそれは常識だったことが分かります。多くの国で、ついこの間まで同様の犯罪とされていたのですし、いまなおそれが有効な国もあるほどです。しかも大抵は、男性優位に法が適用される懸念があり、女性が窮地に立たされることは間違いないわけです。
 
それが、マリアはありえないような反応をしたとされます。
 
48:この卑しい仕え女に/目を留めてくださったからです。/今から後、いつの世の人も/私を幸いな者と言うでしょう。
49:力ある方が/私に大いなることをしてくださったからです。/その御名は聖であり
50:その慈しみは代々限りなく/主を畏れる者に及びます。
 
驚くよりほかありません。マリアは、「神に目をつけられた」ことになりますが、それを「神に特別扱いされた」かのように受け止めていると言っています。マリア自身、ある意味でここで自分の人生に「死んだ」ようなものだと理解してみます。マリアはそれを、神からの切迫だと受け止めています。神が間違いなく私と、差し違えるほどにぶつかってきたのだ、という意識があるようにも思えます。それをこそ、「信仰」と呼ぶべきなのかもしれません。「信仰」とは、それくらい激しい決意に基づくものである、と。
 

◆罪を問う教会へ

マリアの信仰を称えることは、してよいと思います。しかしその信仰によってマリアを通して生まれたイエスは、やがて十字架で殺されます。人が、私が、殺したという形で、次の「信仰」が成立します。それだから、「イエス・キリストの十字架で私の罪は赦された」という救いの道が与えられるのですが、もちろんその告白は大切です。
 
見回してみると、少しばかり気になる空気を感じることがあります。「私はゆるされて当然だ」と決めてかかっているような心です。クリスチャンと自称していても、「当然ゆるされる」というようなことを口にする人を知ると、私はいくらか忌々しい目で見つめてしまいます。人を裁くな、という掟に反するほどの気持ちが沸き起こってしまうのです。
 
「ゆるし」の大安売りがなされているような気がするからです。教会は、「ゆるし」とは何か、そして「罪」について、もっと真剣に問わなければならないのではないでしょうか。何々をしたとか、しなかったとか、そういう些末なレベルのことではありません。人の行為など、たかが知れています。悪いことだって、やってしまうのです。それを問題にすることも、確かに大切ではありますが、その処罰や始末が一番大切なことなのではないと思うのです。もっと人間の深いところ、人間と神の出会うところ、向き合う場面での、何かギリギリのところでの「罪」という問題を考えなければならないのではないかと考えたいのです。
 
自分のしていることに気づかないままに、人が自分を神としてしまうこと。何か自分は敬虔であるために、良いクリスチャンだ、などというふうに自己義認してしまうこと。
 
いえ、このような言い方で何かを説明することは、きっとできないのだろうと思います。「あんたは犯罪人だ」と言いたいのでもありません。うまくは言えないのですが、何か神との関係、神との結びつきというものがどうなのか、そこを問わねばならない、と考えるのです。神との関係ができていないのに、あると勝手に思いこんでいるような詐称はないでしょうか。神との関係が見出せないものだから、勝手に自分が神の役割まで出しゃばって、関係がある、などと思いこんでしまう、とでも言いましょうか。自分で意識しないままに、自分を神の役割に置いてしまうのですが、このことには自分では非常に気づきにくいことだと思われます。抽象的な言い方ばかりですみません。人は、自分で自分を神のように考えてしまうことがある、というところに奥深い「罪」を問うことを、教会はぜひして戴きたいと思うのです。
 
気をつけることがあります。それは、「罪」と同じように発音して書いたとしても、使う場面で意味が異なる場合がある、ということです。「犯罪行為」の意味にとって、教会には行きたくない、と思った人の場合もそうです。クリスチャンになるときには、自分のした悪いことを「罪」と考える場合が多いと思います。その意味の「罪」もありますが、しかしクリスチャンになってからは、そうした行為の上での罪の背後に共通に潜む、得体の知れない、もやもやとした原理的な「罪」を知るようになります。よく、前者は複数形で後者は単数形だ、と説明されますが、そういうことです。けれどもまた、そう単純にすべてが割り切れるわけではありません。
 

◆罪を教える教会へ

元に戻りますが、教会が「罪」について深く問うことが必要だと私は言いました。そのためには、その罪と救いを体験した者が、聖書から語ることをしなければなりません。聖書によって、自分が如何に変えられたか。それを物語るのです。また、たとえいちいちそれを持ち出さなくても、そのような人の聖書の読み方、聖書についての話し方は、自ずから違ってきます。聖書をいくら勉強しても、説明しようとすると、解説に過ぎなくなります。しかし、同じ説明をしたとしても、聖書によって自分が変えられ、生かされたという体験をもつ人の話の内容は、それとは全く異なります。
 
考えてみてください。有名人について書かれた本を読んだだけの人と、実際にその人と会って交わった人とで、どのようにその有名人を紹介する話が違ってくるかを。
 
イエス・キリストに出会った者は、自分にできることから始めればよいのです。イエス・キリストに出会ったら、自分の罪を知ります。自分の罪というのは、キリストに出会うことにより、あるいは聖書に出会うことにより、気づかされます。気づかされる、つまり教えられます。教えられたから、それが罪だということが分かります。
 
ただなんとなく得体の知れないものによって、自分には罪がある、と思うのではありません。世間にはそのように思う人もいます。けれども、それは人間を謙虚にするかもしれませんが、そこで止まってしまいます。聖書から、キリストから、自分には罪がある、と教えられる先には、救いがあります。喜びがあります。もちろん、何でもゆるされ、自由気ままにしていると、自分の罪を知ることはないでしょうから、苦しむことはないかもしれませんが、果たしてそれでよいのかどうか、私は疑問です。たの能天気でいることは、怖いことだと考えるからです。
 
旧約聖書に「箴言」という部分があります。ユダヤの諺や知恵が、殆ど断片的に並べられています。これはズバズバと人の心の中に斬り込んでくる恐ろしさを含んでいます。しかし、諺はひとつのメタファーでもあります。文字通りその言葉の通りに実行するというのではない、と常識は分かっています。「石の上にも三年」という諺がありますが、本当に石の上に三年座る人はいないでしょう。
 
自分の子を憎む者は杖を控え/子を愛する人は努めてこれを諭す。(箴言13:24)
 
若者を諭すことをためらってはならない。/杖で打っても死にはしない。(箴言23:13)
 
これは聖書協会共同訳です。「杖」となっていますが、以前の訳では「鞭」でした。訳の工夫が最近取り入れられたのでしょうが、言っていることはどちらにしても同じでしょう。エホバの証人グループが独自に使う「新世界訳」でも「むち」となっています。しかし、彼らはこれをどうやらいまも文字通りに実行していた面があるらしいのです。彼らは、聖書を文字通りに信じるというモットーを掲げているからです。いわゆる「宗教2世」の問題は、宗教にあまり関心のなかった人々を中心としてセンセーショナルに報道されていますが、聖書によって体罰の実行を正当化するという読み方でよかったのかどうか、それは問われて当然だろうと思います。
 
しかし、だからと言って、この諺が指し示す事柄までも等閑に付してよい、とは思えません。体罰はいけない、だから子どもに教育も強制してはならない、ということにはならないはずです。子どもが思う自由になんでもさせる、という親や社会があったら、むしろそれこそが本質的には虐待である、と言ってもよいのではないか、と私は考えます。
 
従って、教会が「罪」を語らなくなったら、それと同じことで、もはや教会ですらなくなってしまう、と私は案ずるのです。地の塩としての役割を捨ててしまうことになります。そうなると、人々が心の苦しみを覚えたときにも、せいぜい自分で自分をゆるすということしかできなくなります。信徒にしても、それが聖書の「ゆるし」だと勘違いをしてしまうのです。その傾向は、実はすでに出てきている、と私は見ていますが、これ以上そのことをいまは追及しないでおきましょう。
 

◆聖書から教えられる

思い起こします。聖書を通じて、イエス・キリストの十字架を知ったときのことです。自分がひとを傷つけていた、と気づかされたことは、まず根本的なところでした。けれども少しして、さらに気づかされたのです。自分ではなんとも思っていなかったことが、とんでもないことだと思い知らされたのです。それは、電車の不正乗車でした。詳しい手口を申し上げるつもりはありませんが、これは犯罪でした。私は電車会社に手紙を書きました。しばらくして、電話が掛かってきました。私は、受話器を握りしめて泣いて謝りました。駅長さんだったと思いますが、賠償などの措置はしないということまで添えて、ゆるしてくれました。時々、私と同じようにキリスト教を信じたということで、そうした告白があるのだ、ということも知りました。
 
他にも、謝らねばならない相手はいくらでもありました。そのすべてに謝罪したわけではありません。しようと思えばできた場合もありましたでしょうが、実質出向いてというような形ではできませんでした。ただ、ひとつでもこの電車の件におけるように、現実に「ゆるされた」という強い体験がありました。イエス・キリストのゆるしとは単純に比較できないことではありますが、その体験から確かに「教えられる」ものはあったと思っています。
 
これは、自分のした行為についての「罪」であり、まだまだ深いものではありませんでした。けれども、大切な入口だったと考えています。それは、私の魂が、神と向き合った経験だったためです。妙に逃げることをせず、神からの突きつけに応えようとした結果だったのです。それで、神に向かって呼びかけること、語りかけること、そうするようになった、ということでありました。
 
22:しかしヤコブよ、あなたは私を呼ばなかった。/イスラエルよ、あなたは実に私を疲れさせた。
 
イザヤ書の預言によって、神がイスラエルに問題としたのは、主を呼ばなかったことでした。マリアのように、主に向き合うこともなく、主を無視して自分のことにかまけていたこと、だとも受け取れます。
 
知らない相手を呼ぶことはできません。イザヤは、イスラエルに「主を知れ」と迫っているのだ、とも言えるでしょう。
 
「教会」という訳語は、何だか「教える」ところだというムードを醸し出していてよくないのではないか、と最近私はお話ししました。原語には「教える」ニュアンスはないのだ、と。けれども、今日は、聖書が私たちに「教える」ということの意味を、それこそ正に「教えられて」きました。そうです。聖書はそもそも「教える」ことをしていたのです。
 
聖書はすべて神の霊感を受けて書かれたもので、人を教え、戒め、矯正し、義に基づいて訓練するために有益です。(テモテ二3:16)
 
預言者の書は、語りかけて教えてきました。聖書は「聖」という私たちのイメージの本というよりは、人間の罪のカタログのようなものに見えます。私たちは、聖書と自分とを照らし合わせることに熱心にならねばなりません。聖書を他人事のように読むのではなく、聖書の中に自分が登場する意識を忘れないようにしましょう。私たちは、聖書から自らの罪を「教えられる」のです。聖書を通じて、私の身に起きた出来事、世の中で起きた事件からでも、自分の罪を「教えられる」のです。
 
私の中にどんな罪があるか、それを痛感した上で、私はまた改めて、救いを知ることになります。神は、私の罪を、確かに存在したその罪を、あの全能の神が、思い起こすことはしないのだ、と知るのです。

私、この私は、私自身のために
あなたの背きの罪を消し去り
あなたの罪を思い起こすことはない。(イザヤ43:25)

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