断食の意味が変わる
ゼカリヤ7:1-14
イスラエルが再出発をしようとしています。バビロン捕囚から、ユダヤへの地への帰還が許され、これから神殿の建築が始まるところでした。バビロンでは、国が滅び連行されたことを覚えて、断食をして嘆く習慣が、ずっとなされていました。バビロンでユダヤ人たちは、この悲しみの時を忘れず、断食を守っていたのだそうです。
しかし今、そこから解放されました。ベテルにかつて住んでいた者たちでしょうか、エルサレムの祭司や預言者たちに尋ねる者を寄越しました。あの断食を、今後も続けるべきでしょうか。あちらで不幸を嘆くための断食が、帰還した後も続けられるべきなのかどうか。ベテルは「神の家」の名をもちます。かつてヤコブが契約を与えられ、祝福された地です。
アブラハムの祭壇も、そこにありました。イスラエルの民と神とのつながりを、いわば象徴する地です。帰還から始められる新しい歩みがスタートするに、相応しい地だと言えます。ここでゼカリヤは、主の声を聞きます。捕囚の70年の間、おまえたちが続けてきて断食は、本当に主のためであったのか。それは思いがけない問いでした。
貧しい者を虐げていたではないか。やもめや孤児、寄留者を憐れんでいなかったではないか。裁きもいろいろなしただろうが、そこに真実がなかったら、いったい何が断食なのか。神の問いかけは鋭く、民の良心に斬り込みます。不幸を嘆くための、形骸化しただけの断食なのなら、いったいそこに何の意味があるというのでしょうか。
心はダイヤモンドのように硬くなり、主の律法の真意をまるで覚っていなかったではないか。主はそのために、激しい怒りを向けました。この地は荒廃の一途を辿りました。主がそのようにしたのだ、と預言者は告げます。但し、主はエルサレムを棄てたわけではありません。主に慈しみによって、エルサレムはここから回復されることも言い添えます。
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