倒れても起き上がる(ミカ7:7-10)
◆クリスチャンという重荷
自分が目の前のことに行き詰まり、とくに人を傷つけたことで、絶望感に包まれていたときのことでした。京都で一人暮らしをしているとき、大学卒業の年の後半に、よくぞこれだけ乱れた生活をしていたものかと、我ながら呆れます。イエス・キリストに出会ったのは、そんな中でした。その時、自分の間違いを思い知らされ、精神的に一度無になりました。それはまさに「罪」の経験でした。
国際ギデオン協会の新約聖書でそれを体験した私は、教会に行くことを必要としていました。けれども、しばらくその勇気が出て来ませんでした。よく「気軽にお越し下さい」などと教会の誘い文句にありますが、とても気軽に行けるところではないのです。その意味で、今日ここへおいでの方の中には、きっと勇者がいらっしゃるだろうと思います。
広告で見た美容室に、ちょっと興味が湧いて、覗いてみようと思ったことがありました。同じく京都で、学生時代のことでした。当時は髪が長かったんですね。店内を少し覗いてみて、雰囲気がよくなかったら入らなければいいさ、と考えていました。ビルのエレベーターに乗り、美容室のある階でエレベーターのドアが開いたとき、わが目を疑いました。そこはすでに店内。店員が一斉に「いらっしゃいませ」の大合唱をするではありませんか。私は崩れ落ちるような気持ちで店内に足を踏み入れるほか、ありませんでした。
教会に、ちょいと行ってみるなどということが、できない気持ちを、ご理解戴けるでしょうか。一度足を踏み入れたが最後、手を引っ張られてそこに入り、もう二度とそこから出られないようになってしまうのではないか。そんな恐れがありました。また、教会に行くようになったら、迂闊なことができなくなるという制約を感じることもありました。酒もたばこも、その他普通に人がしているようなことでも、聖人のような生活をするためにはすべて禁じられて、不自由になってしまうのではないか、と考えたのです。きっと頭の中には、修道院のような生活がイメージされていたのだろうとは思います。でも、とにかく一度教会の門を潜るということは、もう引き返せない世界に入るというふうに、私は捉えていました。
第一、「敬虔なクリスチャン」だなどと言うではありませんか。自分はそんなタイプではない、なにしろこれまでどんなに酷いことをしてきたか、痛感していた最中です。そんなふうになれるはずがないではないか。それに、クリスチャンとしての劣等生の自分を人が見たら、それでもクリスチャンなのか、と嘲笑うような不安にも襲われました。
ずいぶんな奴です。まだ、教会に行く前から、そして教会に入れてもらえるかどうかさえ、分からないのに、妙な妄想が働いていたのでした。
◆自分の生き方に悩む
聖書ですでに神と出会う体験をするというのはありうることですが、独り善がりになる危険性があることは分かっていました。教会に真摯に何かを求めるというのは、必要だと、当時の私にも思えました。人とつながるというためであることもあるでしょうけれど、聖書そのもの、そこから救いや喜びというものを確かなものとするために。
まだ若いせいもありましたが、自分がどうするのか、そこに必死でした。自分は何に拠って立つのか。頼るものはあるのか。それは結局自分自身なのか。どこから来て、どこへ行くのか。恐らく多くの人が一度は考えるであろう哲学的な問いは、私にとり根本的な問題でした。高校で迷いもなく理系に進み、一度失敗したときに、哲学という道を選んだのは、そのことに気づかされたためでした。
ラジオをかけっぱなしにしてよく作業をしますが、だから最近人気のある歌については、そこそこ気づいています。紅白歌合戦でも、たいてい知る人たちばかりでしたが、「まふまふ」さんにはやられました。ああ、これは自分がかつて考えたことのあるものだ、とも思えたのです。気がつけば涙が頬を伝っていました。「YOASOBI」が出てきたときにもそんな気がしたし、その前に「ヨルシカ」がまた、心をくすぐっていたこともありました。
閉塞感漂う時代、若者もまたもがいている。先行きが見えない世の中。しかも彼らは、生まれてから、華やかな時代という経験がない。人生のすべてが不況であり、どんよりとした空気、将来に明るさのない世界の中で、閉塞しないものを心に懐けるというのは難しい話でありましょう。
自己否定を繰り返しつつも、否定と虚無とで終わらせてなるものか、そんな叫びを放つだけのエネルギーが、まだ彼らにはあるだけ、よいのかもしれません。それができずに、抑えこんでいるだけであったり、自分を追い込むほうに向かうか、あるいは逆に他人を攻撃するようにせざるをえないかとなったりする若者が少なくないことを、いつも気に懸けています。
自分はどうしたらいい。おまけに、人目を気にしないと、なんとか生きていくことすらできそうにない社会。すがるように求めた先が、新興宗教であることもありがちなことでしょう。キリスト教会に何かを求めた人を、教会は温かく迎えて戴きたいと願います。
◆自分という視点
けれども、何かに頼るというのは、弱い者のすることだ、という考え方も、依然として辺りに漂っていて無言の圧力になっているように見受けられます。大人社会の圧力もあり、それを受けた若い世代の世界もまた、そうであるかもしれません。かの歌の中でも、安易に神を求めるものがないのは仕方がないとしても、他人を頼るようなものも薄いように私は感じています。
少し前なら、自分を信じるというのがお決まりのフレーズでした。今はその声が途切れているように見えます。自分で自分の道を決める、それでいいんだ、というような肯定感を、自らつくるような構造はないでしょうか。赤ちゃんのときに大切なことは、世界を肯定することを体験して覚えることだとよく言われます。そこで自己肯定感を人生のベースにできたならば、まずは生きていく力を得るところからスタートできたことになるのだ、と。
自分の肯定が土台にあってこそ、自己否定があるのだと思います。私などよりいくつか上の世代では、自己否定の末に何かを見出すという人生思想があったように感じます。倉田百三や阿部次郎という名前を聞いても、誰それ、という人が多いだろうと思えますが、明治期の文学者たち辺り、強烈な自己否定ができたのも、私は、自己肯定が根本的にあったからではないか、と考えています。中には、その肯定感に勝る否定に襲われ、自ら命を絶つような文学者も数多くいましたから、単純に解決できる問題ではなさそうですが。
彼らもまた、宗教や信仰に何かを見出そうとしたことが多々あります。聖書を、文豪たちはよく読んでいたものです。けれどもいまや、聖書にそのような権威を覚えたり、聖書に光を見出すかもしれないという評判を聞いたりすることがなくなりました。却って、宗教は危険だというような先入観がむしろ常識化しているともいえました。それで、自分が頼ることについて、安定した関係が結びづらくなっているように思います。
気楽に仲間とつながるということで、どこかごまかしたり、あるいはそれを契機に深いつながりを見出していったりできた時代とは、やはり一線を画しているようです。そのとき、自分から何が見えるか、自分に正直に捉えた感覚に基づく世界、それが、言葉で表現できる場面が、若者の心を捉える音楽や各種アートであるのかもしれません。
◆敵の指摘に抵抗できない
文化批評をしようとしたかのようにも見えます。長い問いかけでした。今日は旧約聖書のミカ書を開いたことを、すっかり忘れていました。
ここで預言者ミカは、信仰のなくなった同胞たちの中で、嘆いています。為政者は人々を虐げるばかりで、自分の地位を守ることばかりしか考えていません。社会には不正がまかり通り、それを正す力は、もうどこにもありません。不条理な世の中を批判する預言者ミカも、ずいぶん疲れてしまっただろうと推測します。
ここからはこの主人公を、聖書に訳されたままに「わたし」と呼びます。ここに登場するのは、「わたし」はもちろんですが、主なる神を別にすれば「敵」です。この敵なる者は、わたしの様を見て嘲笑い、喜んでいます。「お前の神、主はどこにいるのか」と馬鹿にします。
7:10 「お前の神、主はどこにいるのか」と/わたしに言っていた敵は
クリスチャンは、これを言われることを内心恐れているように思います。「お前の神、主はどこにいるのか」という「敵」の言葉は実に厳しいものです。まず、私がだらしない生活をしているような時に、言われそうです。お前はそれでもクリスチャンなのか、信じたらましな生活をするはずだろうに、お前はそんなことで敬虔なクリスチャンだとでも言うのか、と。それから、私が何かを祈っても叶えられない時にも、言われそうです。神に願っても聞かれないでいる、そんな神はいったいいるのか、無意味に祈るようなことは馬鹿げているのではないのか、と言っているようなものではないでしょうか。
それに対して「わたし」は、主の救いを待つと言い、主はわたしの願いを聞かれるのだ、と口にします。が、なんだか聞かれるような雰囲気がありません。敵はわたしを見て喜んでいます。嘲笑っています。それに対して、喜ぶなと抵抗し、わたしは起き上がるなどと言っても、果たしてその強がりに根拠があるのでしょうか。
それとも、根拠がないのに、自分を信じるとか、自分はこれでいいとか歌っているのと、聖書の信仰というものは、何ら差が無いものなのでしょうか。
◆罪を犯したという自覚
この困難の解決のポイントを、私は次の箇所に見出すことができると考えています。
7:9 わたしは主に罪を犯したので/主の怒りを負わねばならない
自分は敵にあしらわれている。そこで私は主よ救ってくださいと願う。神の救いを待つ。これは一筋の道ではありますが、これをただそのままにつなぐことを、聖書はためらっているのではないかと思うのです。神を信じるというのは、神を信じて祈ればその願いを聞いてくださる、助けてもらえる、ということであると理解するのは、凡そ宗教一般、どこでも誰でも考えることです。イスラエルの中に一時はびこったバアル神への信仰においても、それは顕著でした。有名な、エリヤとバアルの預言者との対決場面です(列王記上)。
18:26 彼らは与えられた雄牛を取って準備し、朝から真昼までバアルの名を呼び、「バアルよ、我々に答えてください」と祈った。しかし、声もなく答える者もなかった。彼らは築いた祭壇の周りを跳び回った。
……
18:28 彼らは大声を張り上げ、彼らのならわしに従って剣や槍で体を傷つけ、血を流すまでに至った。
私たちの祈りが、下手をするとこのように自分の願いを実現させるために躍起になっているとしたら、省みる必要があろうかと思います。なんとしてもこれを祈ればその通りになると信じている、それが信仰だ、と述べる人がいて、なかなか迫力がありますが、その奥底が問われるわけです。もちろん、逆にどうせ神にはそれはできないだろう、と思うのもどうかしています。だから信仰ということは、単純ではないのです。
戻りましょう。主を仰ぎ、主の救いを待つこと、その結果、神は私の訴えを取り上げて、わたしの求めを実現してくださる。この間は飛躍があると申しました。主を待てば、結果が成る、それだけのものではない、ということです。それをつなぐものとして、「わたしは主に罪を犯した」という意識が、どうしても必要だと見ているのです。
罪の意識とは何か。それは幾らここで説明しようとしても、不可能だと考えます。定義できるものでもないし、何かしら規定しようとしても、それがすべてではないだろうし、それとは違う経験をしている人も、きっといることでしょう。大きな捉え方をすると、神を知らなかった者が、自分の正しさを放棄する経験と神と出会う経験をすることだ、などとも言えるでしょうが、これも適切に表現することは無理でしょう。
そして、その罪の自覚は、「主の怒りを負わねばならない」という判断に自分を追い込みます。嘘泣きでもするかのように、ポーズだけ「自分は罪人です」と口にしても、全く意味がないのです。実に恐ろしい事態に自分が陥ったという絶望、あるいは暗闇を知った者だけが、その向こうにある光を受けることができるのだろう、と私は信じて疑いません。
◆その「時」に
では、その絶望と暗闇を覚えた人は、それからどうなるのでしょう。私は、イエス・キリストに出会いました。十字架の上で苦しむ主イエスと、出会いました。そして、赦されるという経験をしました。これについても、また幾度となく様々なメッセージを受けることができるかと思います。十字架について、罪について、赦しについて、聖書を開く人は、ある時そのすべてが明らかになる瞬間を迎えることでしょう。求め続けること、心を向け続けることで、相応しいその時が与えられることと私は信じます。
しかしこの預言者は、少しばかり変わった言い方をしています。先ほどの罪を犯した云々の言葉は、続けて次のように告げています。
7:9 わたしは主に罪を犯したので/主の怒りを負わねばならない/ついに、主がわたしの訴えを取り上げ/わたしの求めを実現されるまで。主はわたしを光に導かれ/わたしは主の恵みの御業を見る。
主の怒りを負うことの終わりがあるというのです。「ついに、主がわたしの訴えを取り上げ/わたしの求めを実現されるまで」だそうです。それがいつのことなのか、わたしは知ることがありません。すべて神が主体であり、神が決定します。しかしただ、「主がわたしの訴えを取り上げ、わたしの求めを実現される」時があるのです。その時が来るのです。
その時が来さえすれば、その後は、わたしを光に導いてくださり、わたしは主の恵みの御業を見るのだとしています。わたしの求めを実現される、ある「時」が用意されています。私がその時を待つというよりも、その「時」が私を待っているかのようにすら思えます。
これを図式的に示すと、整理できるでしょう。将来的に、ある「時」が用意されている。それまでは、わたしは罪を犯したという思いを懐き、主の怒りを負うことがあります。そこは闇に喩えられる世界であり、敵に馬鹿にされています。敵はわたしが惨めでいることを嗤い、神はどこにいるのか、と軽蔑します。ところが、その「時」を境にして後、事態は一変します。「主こそわが光」というその光の世界が訪れます。わたしはその「光に導かれ」ます。そこでわたしは「主の恵みの御業を見」ます。わたしの願いは実現されるのです。
旧約の預言者は、イスラエルの復興や救いを、「その日」という呼び方で示し、「その日」にどのようなことが起こるのか、イメージを言葉で描きました。ここでいう「時」は、そのような日のことだとしてもよいかと思います。但し、「その日」というのは、イスラエルが国単位で救いを得ることを多く意味していましたが、いま想定している「時」は、個人的な眼差しで捉えてもよいことにしています。
私たちは神を信じるという場合、この「時」を信じている、と言っても過言ではありません。今は闇でも、今は不条理な世界であっても、その「時」が来る。神の「時」が来るという待ち方が、私たちにはできる、少なくとも許されている、それが、神を信じる者の強みです。希望です。きっとなる、という信頼は、ただの幻でもなく、弱者のルサンチマンに基づくものでもありません。それこそが、私たちの希望であり、すべてではないのでしょうか。それがあるから、いまこの瞬間に喜ぶということもできるのだ、と思うのです。
◆何度でも立ち上がる
旧約の預言者たちは、強い信仰があったのだと思います。まさに今述べたように、根拠のないところに希望を見出さなければならなかったからです。しかし、新約の時代、そして私たちもまた、その希望はもっと確実に与えられていると言えます。イエス・キリストが現われたからです。
神の言葉たる方がこの地上に確かに存在して、その人を十字架に架けて殺すという罪を人が犯しました。私が殺しました。私が「十字架につけろ」と叫んでいました。私が唾を吐きかけ、平手を打ちました。私が茨の冠をかぶせ、愚弄しました。私が惨めな十字架での姿へと主を追い込み、その掌に釘を打ちました。
主は死に、葬られ、そして復活しました。そのため、私に直に「赦された」と言葉を下さいました。
これを受けたことが、旧約の預言者と異なります。かの「時」に至るまでに、すでに光を知っているからです。恵みを注がれたからです。私は、その「時」までの闇の世界の中でも、ただ惨めに座っているだけではありません。主が光であることを、もう知っているからです。だから、この世で恥をかいても、嫌われても、不条理な目に遭っても、思う通りにならなくても、私は立ち上がることができます。何度倒れても、また起き上がり、歩く力を与えられるのです。もちろんそれは、私だけの出来事ではありません。この言葉を胸に納めたあなたにも、確かに与えられる力であるのです。8節を最後にお読みします。
7:8 わたしの敵よ、わたしのことで喜ぶな。たとえ倒れても、わたしは起き上がる。たとえ闇の中に座っていても/主こそわが光。
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