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本物の愛のため

コリント二8:1-7 
 
あなたがたの愛が本物であるかどうか確かめたい。この直後に口をついて出た、パウロの本音に近いところが、この箇所を支えています。コリント教会は、実に手を焼く教会でしたが、パウロ自ら開拓した教会のようです。一人ひとりの顔も浮かんできたことでしょう。教会内の、強みも弱さもパウロは全部知っていたはずです。
 
パウロ自身、献金を集める使命があって走り回っていたとしたら、コリント教会にもそれを促すうまい説得が必要だったことでしょう。あのマケドニアの教会の献げっぷりはどうだ、と言わんばかりの論理を展開します。貧しい中からあれだけ献げたのだ。豊かな生活を送るコリントの人々よ、なんとも思わないか、というような迫り方です。
 
日本の震災に、台湾の人々から募金が寄せられました。東日本大震災のときには、金額にして250億円を超える額が届けられ、物的支援も含めると計り知られぬ篤い支援が日本になされました。ただ、この報道に驚くことはあっても、それ故に私たちも他国の災害にもっと献げなければならない、という気持ちが沸き起こるでしょうか。
 
一部の人はそう思うかもしれませんが、台湾全土が動いたようには、日本の私たちは動くことはないのではないかと思っています。違ったらごめんなさい。コリントの教会は、このパウロの促しによって献金に燃えて集めたのかどうか、私は懐疑的です。どんなに恵まれているか知れ、と迫られても、それほど心痛み行動に出たかどうか、分かりません。
 
もちろん私たちはコリントの当事者ではありませんが、同じ立場に今いるという想像力をもつことはできないでしょうか。パウロから呼びかけられています。いえ、神が呼びかけています。さあ、マケドニアは厳しい迫害と貧困の中にいましたが、その情況を顧みず、自らの力以上に進んで献げ物、さらに労力の奉仕を願い出たというのです。
 
腰が動くでしょうか。よし、助けよう、と。マケドニアの人々は、「自分自身を献げた」と言います。神に対しても、人に対してもです。私は砕かれます。まさに私への厳しい警告です。座って批評しているばかりで、何もしてはいません。口先だけの私へ向けて、このパウロの言葉は、矢のように襲ってきます。何かしたと言えるのか、と。

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