佐藤雅晴展に行く前に考えたこと
◇"再現"との遭遇が引き起こす「認知のドップラー効果」
タルトに勧められて、2022年1月、水戸芸術館『佐藤雅晴 尾行ー存在の不在/不在の存在』を観た。
この展覧会に行く数日前にタルトからいろいろ聞いた時点ですでに、この不在のアーティストの存在が、アートという再現として私を尾行してきていた。そして、いつの間にか私という存在を通り過ぎていき、私はその瞬間、それまで居た世界から不在となってしまったのだ。
作品を観る前にタルトに送った文章。
-----
あるモノがある場所には、(そのモノが空間を占めているために)別のモノを置けない。
はずなのだが、
そのモノがたいへん忠実にわたしらの認知に寄り添った"かりそめのモノ=simulation(再現)"だったとしたら、
それはそこに在るように見えても実は不在なので、
わたしらはその場所に入り込めてしまう。
これは追体験ではなく、そのモノがあった時空を「いま」「ここ」にいるわたしらが占めてしまうことであるので、わたしらはいまここから居なくなってしまう。認知の境界のはざまにストンと消えてしまう。それは無に見えるが、実はこれこそが有である。つまり、イデアの実体(=宇宙)との合一である。
大いなる自然のsublime(崇高さ)が人智を超えているのと同等に、神は万物のdetail(細部)に宿っている。
天地もわからない暗闇に身を投ずること・無音室に入ること・ベッドの上で全知覚を遮断されること(つまり、死の"再現")でヒトは人智を超えると同様に、コロナ禍において彼のアニメーションに遭遇し、ぼんやりと知っている実景の中の巧妙に"再現"された部分を「眼球が追ってしまい」、知っている音を「鼓膜が聴いてしまう」こと--感覚を研ぎ澄ますこと(つまり、生の"再現")--でやはりヒトは人智を超える。
わたしらヒトは太古からの進化の過程を胎児の際に全員"再現"してからわざわざ生まれてきたのに、その体内では、潮の満ち干き--宇宙のリズム--を知っている海洋生物に似た「太古の記憶を持つ」臓器が進化もせずに呼吸している。
このように、わたしらは「迫りくるもの(不随意な未来)」と「遠ざかるもの(とりかえしのつかない過去)」というそれぞれ真逆へ向かう事象を観測していたつもりだったが、実は「いま」「ここ」にいるわたしらを境界に、"音が高くなってきて近づいてきている、と思っていたらすでに音が低くなっていき遠ざかっていった"、というように、あるひとつの"再現"=認知の波紋に身を浸していただけである。(この世はすべてイデアの影である、というが、認知しているのは「いま」「ここ」ではなく"再現"なのだ。万物はふたたびあらわれることはなく、イデアのままとなり、「つかみ取れなかった超常現象」になる。いまここにしかいないわたしもふたたびあらわれることはない)これを「認知のドップラー効果」と呼ぶこととする。
"再現"がわたしを通り過ぎる瞬間、認知不可能な境界である「わたし」の存在がたちのぼる。この効果は佐藤さんの作品を通じて観測可能である、と推定できる。
今見えている星の光は、何年もかけて今届いた、何年か前の光である。
認知可能な世界には"再現"という"もう無いもの"しかなくて(不在の存在)、いまここに有るものは認知不可能である。(存在の不在)
佐藤さんの作品は、自動筆記(オートマティスム)や、あり得ないものの組み合わせ(コラージュ)でリアルをつかもうとしたシュルレアリスムに似ているのではないか。
学生の時に登った高野山の本堂の中で、お香の煙で何も見えないがらんどうに声明だけがあり、実際には無い巨大な三尊像が顕れていた時、ここにあの世あり、と言わざるを得なかったことや、フランシス・ベーコンがマイブリッジの連続写真の中に認知不可能だった人体を認知し、カンヴァスの上に引きずり出したことを想起した。