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「相手がだらしない人だと、自分もだらしない方が相手が動いてくれる。」

しっかりした人は、相手がしっかりしてる人だと動いてくれる。

相手がだらしない人だと、自分もだらしない方が相手が動いてくれる。

だから、あまりにしっかりして正論言ってる人は、相手が動いてくれない。

   所ジョージ

「世界一受けたい授業」


人に動いてもらいたい時って、無意識に自分を相手に合わせにいった時はスムーズに進むことが多いな。

所さんはサラッと言ってたけど、とっさに質問されて、すぐに言語化できてるところがさすがだ。


職場はいろんな価値観の人の集まりだから、資料作り1つをとっても、細かいところまできっちりしないと自分も他人も許せないという人がいれば、レイアウトが多少めちゃくちゃでもざっくりと形になっていれば完成とみなす大雑把な人もいる。

1人の人の中にも、資料の誤字脱字チェックにはまったく妥協しないけど、構成については許容範囲が広いという人もいる。


そうやっていろんな考えを持った人と一緒に何かしていく時、相手が自分の思い通りに動いてくれたら問題ないけど、思いや考えがズレている時もある。

このズレが生じた時に、相手に何らかの言葉をかけて動いてもらうわけだけど、その時の自分のスタンスを、相手に合わせるといいってことなんだろうな。


自分だったらどう言ってもらいたいだろう?

誤字脱字程度であれば、資料に直接色ペンで書きこんでくれても、付箋に書いて貼ってくれるでも何でもいい。直接言ってくれなくても、手元に戻ってきた資料を見て、「字、間違ってた。恥ずかしい。気づいてくれてありがとう。」と思って修正する。

でも、必要なデータはすべて揃えたのに、追加でいくつも資料の提出を求められると、「本当にここまで用意する必要あるの?」と疎ましく思ってしまう。

ましてや、それを意図も説明されずに「これもあれも用意しといて」とか「なんでこの資料はついてないの?」などという言い方をされると、次から同じような仕事をする時のモチベーションは低いまま。実際にその資料が使われなかったと分かると、「ほら、やっぱり要らなかった。仕事増やすなよ。」と生意気なことを思う。

だけど、「私も君が準備してくれた資料だけで十分だとは思うんだけどさ、ほら、部長が細かい人だから、あのデータのことを訊いてくると思うんだよね。念のため、あの資料も追加で用意してくれる?」といった言い方をされると、自発的に助けたくなるし、次回からも「この資料も追加で用意しておくか」と先回りして考えたくなる。

追加の資料を用意するという作業内容は同じだけど、どういう言葉をかけられるかで、捉え方が大きく違ってくる。

正論だけでは人は動かない。


私が誰かを動かさないといけない立場だったら、自分みたいな反応をする人に対して、「ここまで丁寧に説明しなくても動いてくれたらいいのに」と思うけど、これが正直な反応なんだよな。他の人はまた別の反応をするだろうし。

「この人ならここまで言えばすぐに動いてくれるな」「この子は丁寧に説明しないと反発してきて、ややこしくなりそうだな」と、相手の性格を把握して、それに合わせて言葉を選ぶ。

無意識に実践していて、うまくいっていることもあるけど、もっと相手を観察して、性格を把握しておけば、もっとスムーズに動いてもらえるのかな。


つい正論で片づけてしまいたくなる私。

人望が厚い人の特徴の1つは、こういう気配りにあるのかもしれない。



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