"存在"とは"常に幸せな状態"である。
自我意識は、様々な体験を微細にキャッチし、それを私達人間に伝えてくれている。それは、ポジティブな事柄も、ネガティブな事柄も、全てを1つ残らずキャッチしている。そして、それをもし感じたなら、素直に感じてあげる。
素直に感じなければ、どうなるのか。その感覚は自分の心を飛び出して、どんどん大きく強烈になって、目の前に現れる。時には、それに耐えきれないこともあるだろう。そして、耐えきれなくなって、強制的にそれを素直に感じざるを得なくなる時、初めてその感覚は収まり、自分の心に戻ってくる。その感覚は、人間の一部だからだ。それが例え、ポジティブであっても、ネガティブであっても。
周りには、いつでも様々なことが起きていて、それに翻弄される時も勿論あるけれど、それでも節目で振り返りながら「あんなこともあったな」と想う時、何故か心は暖かく、今までの全てを包み込んでいる自分がいる。何故なら、今までの全てを"体験"と捉える時、そこにはいつでも、ただシンプルに貴重な経験と感情と成長が在ったのだと分かるから。
五感があるから、心があるから、体があるから、世界を感じることが出来る。「全てを体験させてくれてありがとう」と自分に感謝する時、その度にポジティブとネガティブは溶けて1つになる。全ては、ただ在るだけ。そして、"存在していること"が、既に"幸せな状態"なのである。
身近で大切な人たちほど、喧嘩しちゃうこともある。だけど、ほんの何氣ない瞬間に、大切な人の横顔を眺めている時「ああ、この人は今生きているから、目の前にいるんだよな」と思う。どんな人生を共に過ごしたとしてとも、そのシンプルな安堵感と暖かさはいつだって在る。それは、究極の幸せなのだと思う。喧嘩したっていいけど、それと同時に、その究極の幸せが在ることも、思い出していようと思う。そもそも、存在とは愛なのだから。