疲れの目安
物事にはいろいろな基準や目安が存在していると思う。
例えば、何か気になる服を購入しようと思った時に
長い間愛用しようと思えるか、とか、サイズ感は本当に最適か、とか
素材や色味は本当に求めているものか、とか
自分の脳内の中にチェックリストのようなものを構築して
一つ一つにレ点を入れていき、自分の納得のいく個数に達したら購入を検討する、といった具合のように
これを意識的にやる人もいれば、無意識でやってのけてしまう人もいるわけで…
ちなみに自分は圧倒的に前者だ。
そうでもしないと、その場しのぎのアドレナリンと直感によってすべて事が運んでしまうからである。
そういった感じでどんな人にも個人の中での基準、目安は少なくとも存在している、構築させられると思うのだ。
そんな中でも、自分は最近になってだが、ある程度個人的に納得のいく基準を見出した。
それは「疲労」の目安の一つに「休日の当日に、休日何をしようかと考えること」が含まれるということだ。
疲労というのは、主としては身体的なものと精神的なものと分類されることが多いと考えている。
今までは、自分がその疲労に対する目安というのは、基本的には、身体的要素と精神的要素とを二分して考えていた。
簡単にいうと、筋肉痛であるか(身体的)、とか、ストレッチできるかどうか(身体的)、とか、ベッドに入ってからすんなり眠れたか(精神的)、とかである。
二分して考えなけらばならない面倒クサさ、それでは本当に疲労しているかというのを判断できないもどかしさ、を感じていた。
そんな時にふと舞い降りてきたのが先ほどに述べた、「休日当日に休日をどのように過ごそうか考えること」が妥当な目安ではないかとういうことだった。
そもそも自分は淡々と進む毎日に対して、長期休暇や休日という概念が存在するのは非常に厄介なことだと考えていた。
それは長期休暇には、必ず前々からの予定に沿った行動を求められる空気感と、実際にその休暇中には世間でもイベントごとがたくさん発生するからである。
あくまでもこれは個人的なとらえ方である。
この個人的な前提があるからこそ、休日に何をするかを当日に考えること自体が、ナンセンスであり、ある種の疲労に支配されていることであると思うのだ。
そもそも監視されているわけでもないのだから、休日に何をしようが個人の自由であり、個人の主観として淡々とした毎日であることに違いはないのであるから、事前に予定を組み込むなり、能動的に、また直感的に何かを行おうとすればよいのである。
なのに休日に何をしようか考えざる得ない状況にあるということは、休日に必ず身体的にも精神的にもリフレッシュできる何かの行動を起こさなけらばならない、という一種の洗脳的な思考に支配されているという事ではないのか、と考えるようになった。
これは身体的に疲労しているだけでも、精神的に疲労しているだけでも起きる事象ではなくて、どちらの要素でも疲労しているからこそ起きる事象ではないのだろうかとも考えるようになった。
実際に、身体的に疲労しているだけならば、自分の意志でできる範囲でできることを即実践するし、精神的に疲労しているだけならば、体を動かすことからできることを実践するから。
意味のない思考というか、答えのない思考に時間を割くこと自体は絶対悪ではないのだが、「休日に何をするかを当日に考えること」は悪に近いグレーな思考であると解する。
と、長々と書いたが最近しっくりくる目安を発見したので文字起こし的な感覚で書いてしまった。
他人の目安を聞くのは楽しいのだが、反対の立場になった時に納得のいく目安を提示できるかはわからない。
それでも自分の中で納得のできる目安はたくさん持っておきたいと改めて思った。もちろん世間体を気にしない物を。
皆さんにはそんな目安、基準はあるだろうか。
ここまで読んでくださった方いたら感謝感激です。
またどこかでお会いすることにしましょう。
またねっ!
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