最後の晩餐は「音」にしたい
精神的にも体力的にも辛すぎる、そんな限界な時にいつも寄り添ってくれているのはいつも「音」である。
最後の晩餐は?
なんていうベタな質問があるけど、自分は間違いなく「音」と答える。
中学生で野球をやっていた時のことだ。
背番号一桁代を手にすること。それはスタメン確定を意味する。
晩年控え選手だった自分にとって、1試合でもスタメンで出ることができるなんて夢でしかなかった。
もらった時は有頂天。今までの努力が実った幸福でお腹いっぱいだった。
そんな時に実際に聞いたのはアップテンポな洋楽。その曲は25歳になったいまだに聞き続けている。嬉しかったり良いことが起きる願掛けとして。
しかし翌日、、、、
自分はベンチスタート、他の一桁番号代の選手は自分以外全員出場している。
呆然としながらも、いつも通りメンバーに対して終始応援や指示出しに徹する。
結局その試合には出場することもなく、部活の引退まで公式戦に出場することはなかった。
今思えば、最初で最後のチャンスだった試合が終わった後、
1人で泣きながら帰った時に一番寄り添ってくれたのは、いつもの最寄り駅の発車メロディだった。
お帰りと言ってくれたような気がしたのを今でも覚えている。
高校の時、吹奏楽部として吹奏楽コンクールの地区予選に60何年ぶりに出場し、金賞受賞で地区予選を突破した日
同学年全員で学校から帰るときにみんなで合唱したのは、演奏した課題曲と自由曲だった。
各パート重なり合うのが気持ち良すぎたのを覚えている。
大学の終盤、就活の時
自己否定に苛まれている時に寄り添ってくれたのは、同じサークルの同期の飲み会で本気で向き合ってくれる同期の声だった。
心のこもった声とそうでない声の違いにようやく気付いた感覚があったのを覚えている。
こんな風に自分の喜怒哀楽に寄り添ってくれた「音」たちがある。
まだまだこれからいろんな「音」が自分の喜怒哀楽に寄り添って、たくさんの感覚を伝えてくれるとも思っている。
もう自分の中では「音」は食事とほぼ同義なんだ!
いや、むしろ食事の次元を通り越しているのかもしれない。
だからこそ、自分は最後の晩餐で食べる予定の「音」を選ぶためにたくさんの「音」に出会ってみたい。
と思うのであった。
なーんてね
ここまで読んでくださった方がいたら感謝感激です。
それではまたね