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極限状態と普段とのギャップに楽しさを

体力的にも精神的に限界を迎える瞬間を味わったことはあるだろうか

少なくとも自分の中では何度か経験した記憶がある。
それを経験するたびに自分の中での限界と呼ぶ境界線のようなものが吊り上げられて行って、あまり限界だと感じたりとか言うこと自体がが少なくなっている。

と思っている。

そんな中久しぶりに限界だと感じたことがあった。

体力面では睡眠が足りず、体の節々にガタが来ている始末。
精神的には、緊張感が常に走るような環境で、応対に追われ、自分が一体何をしているのかわからなくなるレベルの疲弊だった。

コンディションとしては最悪だった。

こういう時ほどよく思うんだけれども、っていうか当たり前かもだけれども、限界状態の人ほど真の本性が出るもんだと思っている。

体力的にも精神的にも限界を迎えると人は思考ができなくなって、真の習慣のようなものを引き出してくるしかなくなってくると思うからだ。

自分はそのことを認識しているからまだましなのかもしれないが、中には自分が限界であることを認識できていないまま限界状態を継続する人がいる。

一緒に極限状態を乗り切ろうとする人の中にそういう人がいると結構大変なものだ。

認識できていない人って、気づかぬうちに他の人に通常の時とは違う、裏の本性をさらけ出している。

それを他の人は観察して、普段とのギャップに驚く。
時にそのギャップに対して大きな失望を抱くこともあれば、極限の状態でも基本的に変わることのない人の凄さに驚嘆することもあるだろう。

ここまでが一連の流れ。

そこまでの流れは今までに何度も経験してきた。

今回は面白いことにその後の印象のとらえ方を変えることができた実感があった。

基本的にギャップを見た後は、そのギャップをその人の本性として当てはめて、普段の状態でもその本性を持っているものだと思いながら接するようになってしまっていた。

いわゆる、一種の偏見に支配されている感覚である。

しかし今回では、人の極限状態を見ること自体に楽しさを覚えていた。

かつ、極限状態が終わって、普段の状態になった後に何事もなかったのように接することができた実感を得れたのである。

それはやっぱり、極限状態でも普段の状態を保ち続けるキャラを演じようとしている自分の側面が存在していて、極限状態という非常事態を悲観的ではなく楽観的にとらえることができるようになったからではないかと思っている。

こんな話、社会人の大半は当たり前だろうと思うかもしれないが、意外と限界を感じることなく社会人生活を終える方もたくさんいるだろうと思っているから記してみた。

ここまでなんか知ってます風でいろいろ書いたが

そういう自分はどうなっていたかを他の方の声を聴いた上で記しておくと、

たすくなりは極限状態になると、笑い上戸になって、壊れたロボットのように上機嫌になるという事だ。

個人的には、普段が上機嫌で極限で超不機嫌になるよりも、
普段不機嫌で、極限で上機嫌になる方がいいと思うから、なんか少し安心している。

実際、笑うしかなくなるほどに極限だったのも事実だけれども…


と、まあこんな感じで久しぶりに極限を更新できたということでなんだかんだ楽しくなってしまっているたすくなりでした。

もしここまで読んでくださった方がいたら感謝感激です。

それではまたどこかでお会いしましょう。

またねっ。


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