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『インパール作戦』 この日本と連合国との戦いから何を学ぶべきか?その1

#インパール作戦 #牟田口廉也
#太平洋戦争   #東条英機
#盧溝橋事件  #宮崎繁三郎  

戦国時代の戦さをみても、それぞれの大名は、周囲に複数の敵を、いかにして作らないか!そこに注意を払っていた。その方法として考えたのが、政略結婚である。甲州の武田、駿河の今川、小田原の北条とのあいだでの同盟。さらに、信長と浅井家との婚姻など、いくつもの例が挙げられる。

第一次世界大戦でおもわぬ戦勝国となった日本。中華民国のドイツ租借地・青島と、ドイツ領南洋諸島を手にいれる。日清・日露の戦争でも、日本近隣の島や地域の権益を獲得し、ある意味で政府や国民も浮かれていたようだ。

景気のいい話は、誰もが心を奪われる。マスコミはやたらとはやしたて、威勢のいい話を掲載していく。これが購読者数増加につながり、ひくに引けなくなるという始末だった。結局、軍部の暴走を許すことにつながってくる。

そもそも日本の最大仮想的国はソビエトだ。しかし、不可侵条約を結ぶことで、中国と一戦を交えてしまう。その決着がつかぬまま東南アジアに軍をすすめていった。

*インパールまでの経緯
真珠湾の日米戦と、マレー半島上陸戦により、太平洋戦争は始まった。破竹の勢いとなる日本軍。つぎつぎと南太平洋上の島々や地域をモノにする。

しかし、それも半年間ほどのことだった。米英オーストラリアは猛烈な反撃をおこない、次々にうばわれた島々を取りもどす。また蒋介石のたくみな働きかけにより、米英はこぞって中国の支援に乗りだしたのだ。

泥沼化していた日中戦争。そのきっかけを作ったのが軍人の牟田口廉也である。盧溝橋事件のときの歩兵連隊長だった。この牟田口の頭には、日中戦争の責任は自分にあると思っていたらしい。シンガポール攻略のときも、誰よりも率先して軍を引っぱっている。

戦争から1年ヶ月も経つと、日本の戦況はかなり厳しいものになっていた。このとき牟田口が考えたのが、中国への英米国からの物資流入を止めなくては!である。思いついたのが、インド東南の山岳地域から物資をおくる「援蒋ルート」を潰すこと。その中継基地がインパールだった。ここを自分が攻め落とす!それがインパール作戦である。

*すべての参謀が反対
ビルマ(今のミャンマー)からインパールまで470kmある。しかも標高2000メートル級の山々がいくつも連なり、川幅500m川まであるのだ。道も2本ほどあるにはあるが、車は通ることはできなかった。470kmというと、東京から岐阜までの距離だ。それを人の力で物資を運ばなくてはならない。これでは誰も反対して当たり前といえる。

そんななか、牟田口は自分の側近である参謀を更迭する。そして上司にあたるビルマ方面軍司令官川辺正三に打診。川辺と牟田口は、中国盧溝橋からの仲だった。この川辺は、東條英樹へこの作戦について伝えた。この時点すでに南太平洋の大型補給基地トラック島が壊滅していた状況。東条はこの案に飛びついたという。周りの参謀の意見に耳をかさなかった。

*物資がない日本軍その後
英軍のとった作戦は、空からの輸送だった。制空権をおさえた米軍は、大量の物資を現地の英軍に空から送っている。一方、補給線が伸びに伸びて、ほとんど何も入らない日本軍。勝負のつくのはわかっていたことだ。

日本軍のなかでも、一部善戦した部隊はあった。インパール北部のコヒマを攻略した宮崎繁三郎連隊長である。日本軍後方からの支援のないなか英軍の物資(武器、弾薬、食料)を奪い、巧みに攻撃を加えたのだ。かりにそのままディンプルまですすめば英軍の補給は断つことができたようだ。しかし、宮崎支隊の本体31 師団の司令官・佐藤功徳は撤退を命じてしまう。上官・牟田口からの許可を得ずして…。

インパール作戦にくわった3師団。3ヶ月以上粘ったが撤退することになった。食料は全くなく、アメーバ赤痢やマラリアに感染する兵士が続出。9万人のうち、戦死戦病死が30,000人以上、罹患したもの2万人。残り4万人も体を動かすのがやっとという状態だった。

*「無謀な作戦」の責任は誰?
たしかに牟田口廉也にあることは、はっきりしている。しかし、牟田口だけの問題ではない。組織の意思決定にも考えるべきところが多いだろう。

ほとんどの作戦参謀が反対するなか、川辺や東條にも問題があると言える。雨季には大雨が降ることが知られていた地域での作戦。「天長節(昭和天皇の誕生日)」までにインパールを落とす!だと考える事はどう考えてもおかしい。

これは牟田口一人の問題ではない。日本人組織の問題といえるのではないか。メディアの偏った報道にも問題がある。理屈に合わない意思決定。これは今でも続いているのではないだろうか?

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