篤志家『宮沢賢治』の人生について、別角度から眺めてみる!
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#国柱会 #宮沢政次郎
日本人なら、誰もが知っている宮沢賢治。彼の綴った詩や童話は、現代に至るまで光を放っている。そんな宮沢賢治ではあるが、日蓮宗の仏教徒であり、生活に困窮していた人たちへの支援活動は、あまり知られてはいないのではないか。いわば社会奉仕と慈善活動に明け暮れしていた宮沢賢治という人物から、彼の作品を読むと新たに気づくことが出てくるはずである。
*父の宮沢政次郎とは?
宮沢賢治を語るうえで外してはならない人物が、その父・政次郎と言える。宮沢賢治に多大な影響を与えた人物だからだ。明治7年(1874年)に生まれた政次郎、家業の質屋古着商を立て直し、財を築いたという。実業家として一流の人物だったようだ。本人の弁によると「もし仏教を知らなかったなら、三井三菱と同じくらいは稼いだはず」と述べている。
政次郎には、実業家としての顔と、仏教徒としての生き方が備わってたということだ。仏教に準ずる人物にとって、社会奉仕は欠かすことができない。宮沢賢治は、そんな父の姿を真横からみて育ったと思われる。宮沢賢治が成人するまで学校で学ぶことができたのも、この父のお陰とも言える。さらにいくつもの旅行ができたのも、この父あってこそと言えるだろう。
父の政次郎は厳格な親だった。しかも華美や放蕩は許さない。これは生涯つづいたと言う。逸話として残る話に、自分の娘たち(宮沢賢治の妹)が、着物をあらたに買い揃えることまで禁じていたと言うのだ。政次郎の妻イチは説得をかさね、ようやく了解させている。
*仏教徒、宮沢賢治とは?
父の政次郎は家業の傍ら、地元(岩手花巻)の仏教会・中心会員として毎年講習会を開いたという。これは明治31年(1898年)から始めたとされ、当時著名な仏教学者を何人も招いて開催している。政次郎は浄土真宗を信奉していたが、それにだけにとどまらず、キリスト教は他の仏教、さらには哲学まで学んでいた。
幼い宮沢賢治は、そんな父の政次郎に影響されたという。そうとう優秀な子供だった宮沢賢治、小さな時から大人に混じって宗教を学んだ。これが宮沢賢治の生涯にとっての柱となる。東京に学びにいった宮沢賢治は、日蓮宗の宗教団体「国柱会」に入信。これ以降、家族を日蓮宗へ改宗させようとして、政次郎と言い争うようになった。
*農学者としての宮沢賢治!
政次郎は、息子の宮沢賢治に対し、常に話していた言葉がある。「人様のためになることをしろ!」だ。父の期待に応え、宮沢賢治は農学者の道へとすすんでいく。以後、生涯にわたり地元農民のために働いたのだ。ただそれを見ていた政次郎、息子の宮沢賢治を一度として褒めなかったと言う。
宮沢賢治は、自分が農学校で学んだ知識をどうやって地元農民に行き渡らせるかを考えたようだ。その答えが、農閑期に無料の学習会を開くことだった。明治末期、東北においては、毎年のように冷害となり、農作物が育たなかったのだ。これに宮沢賢治も心を痛めたとされる。
*多才さが、死期をはやめた!
驚くのは宮沢賢治の才能である。絵を描くし、楽器の演奏もこなし作曲までする。演劇や歌舞伎にも興味があり、その脚本までも書いた。そのうえ農学も学んだのだ。たぶん宮沢賢治にはいくつもやりたいことがあったはず。上京すると、これらの施設を駆け巡ったという。
いわばヒトの2倍のスピードで、様々なことをやった宮沢賢治。これが死期を早めたようだ。宮沢賢治の死因は肺炎。ウィルスや細菌の感染によって起きるものだが、一番悪いとされるのが過労と言われている。あまりの才能が、宮沢賢治をしてそうさせたと言うことだ。わずか37年の生涯ではあったが、一般人の70歳80歳に相当する仕事をこなした。
*いまに生きる宮沢賢治とは?
人の2倍のスピードで、4倍以上の仕事をした宮沢賢治。彼の業績は、いまだ我々日本人の心のなかに入っている。その多くの作品は、我々の心を捉え、読み継がれ、心をうつ。しっかりと日本人の魂に根付いたと言えるだろう。そんな宮沢賢治は私にとってもココロの師である。
「雨ニモマケズ」、この詩を暗通してるのは私だけだろうか。この詩によって、様々な親族の問題を解決してきた。従兄弟の精神病、義弟の借金問題、父の実家その相続トラブルにも駆けつけ、すべて無事におさめた。「東ニイキ、西ニイキ、南ニイキ、そして北ニイッタ」のだ。たぶん、この詩に誘われて動いたと思われる。
*まとめ
宮沢賢治は、その父・政次郎によって進路を決められたようである。多分「ギフテッド」(天才)だったのかもしれない。「ギフテッド」は世の中にかなりの率で存在していると言う。しかし、世に名を残すのはわずか一握りのものだけだ。この政次郎なくして、宮沢賢治の存在はなかったと言っていい。まさに「親子鷹」だった。
[追記]
宮沢政次郎は、83歳まで長生きをした。晩年になって、宮沢家は日蓮宗に改宗したと言う。あれだけ息子と言い争った政次郎だったが、息子・宮沢賢治の功績に理解を示したということなのだろう。