『 論語 』 孔子の素顔から、その本質を探る!
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またまた論語について考えてみる。孔子が没っして、すでにニ千五百年もたつというのに、いまだ孔子の研究はつづいている。論語、なかなか文字だけではわかりにくい。しかも孔子なき後に、様々な人がいろいろ書いているため、なおも不明な点は多くなっている。
*儒教の聖人、孔子!
孔子自身は、自らのことを儒者であるとは言っていない。これは周りの人たちがいった言葉。しかもたいていは悪口である。ではこの儒とは何か。儒とは、おもに冠婚葬祭をとりおこなう職業集団のこと。つまり孔子のことを、この儒と人と言ったわけだ。
孔子の父は、勇士として知られた人物。母は、顔氏の一族の出だった。この2人の関係は父の一族では認められないもの。したがって孔子は、母と暮らすことになる。大変だったのは、極度の貧困だったこと。若き孔子、生きるためには何でもやったと言う。農家の手伝いみたいなこともやっていた。
人に物事を教える立場となって、弟子として集まってきた若者。彼らは、この母方、顔氏一族のものが多かった。この顔氏こそ、冠婚葬祭を生業とした集団だったのだ。そのため、周りから見ると、孔子は儒家の者とみたようだ。
*孔子の説く、最高の徳目!
孔子は、「仁」について、論語のなかで何度もふれている。しかし「仁」とは○○だと断定してるわけではない。それぞれの例を拾い、これこそ「仁」であると言っている。つまり、ここには解釈の余地が残されているということだ。
一応「仁」とは、愛であると、はっきり言ってる箇所もあるから、大きくみれば「愛」ということでいいのだろう。漢字は「表意文字」である。事物の概念を表しているので、そのツクリを見て、読み解く事は可能だという。「仁」とは、ニンベンに「ニ(に))。ニンベンとは人のこと。そこからニ人の人間関係ということがわかる。ニ人がお互いに気をつかい思いやる、そこに「仁」があるというわけだ。
現代で言えば、「care(ケア)」の心と言えるだろう。「世話をする」 「面倒を見る」に通じるもの。よくいわれる言葉に、「医は仁術なり」があるが、これこそ医療本来のものを表しているだろう。逆に言えば、かりに治療をおこなったとしても、この「仁」(Care)の心がなくては、本当の医療ではないと言うことだ。
*現代にも通じる孔子の教え!
論語は、孔子が弟子にかけた教えを文章にしたもの。この教えるなかで、驚くことは孔子は何でも教える!そういう立場を取らなかったということ。つまり、自分自身で考えろ!そう言っている。
こんな言葉がある。子曰、不曰如之何如之何者、吾未如之何也已矣。子曰く、之(これ)を如何(いかん)、之を如何と曰わざる者は、吾之(われこれ)を如何ともする末(な)きのみ。
弟子が孔子にたいし、「これはどうでしょうか。どのようにしましょうか」と、自分では考えずに、やたら聞くと言うのはどんなもんか。まずは自分で考えなさい。考えるから、生きた知恵が身につくんだ。
また孔子はこうも言っている。「弟子が自ら学ぶ気になっていなければ師は導かない。師としては、もうほとんど理解した!と言うところまで達していることを条件に教える」。この考えは、現代のコーチングに近いものがある。コーチングは教えるのではなく、学びを支援するという立場。2500年前の孔子の言葉には驚かされた。
*まとめ
歴史のなかで孔子の教えを見ていくと、どうも間違った方向に進んでいったかのように見える。覚えることが答えを見つけることにつながるという考え。しかし孔子はそんなことは言っていないのだ。むしろこの教えは、孔子一人のものだと言っている。あなたの問題は、あなた自身で見つけなくてはいけない。そういうことだ。
日本でも、明治維新以降、とんでもない間違いを繰り返している。真の論語の考えを取りいれず、表面的な言葉のみを取り込んだ結果とも言えるだろう。本当の教育とは、自分の頭で考える力を育てるということだ。いまの時代にこそ、この言葉を心に刻もう。